何気なく横を覗き込んだら、わたしの約三倍くらいの数字が見えてたまげた。黒板にチョークで書かれたクラス平均と彼の点数を交互に見、わたしは言葉も出ない。うそ、この平均点なのにこの点数なの? わたしが確かめるようにまじまじと見つめていたら、それに気づいたらしい久遠くんが訝しげな視線を送り返してきてどきりとした。慌てて何も見てませんというように目を逸らし、高鳴る心臓を抑えようと深呼吸した。 久遠くんと目が合ったのは今のがはじめてだ。休み時間、彼は大抵本を読んでて、友達とのおしゃべりに夢中なわたしはそんな彼を気にしたことなんてなくて。だから、彼がこんなに整った顔立ちだったなんてもちろん知らなかった。なんとか心を落ち着けて、自分の解答用紙に目を向ける。だいぶ気分が萎えた。



*



久遠くんは、フルネームを久遠道也くんといって、3年ではじめて同じクラスになった男の子だ。この前の席替えで隣同士になったものの、寡黙な久遠くんとわたしの気が合うはずもないと思ったので、話しかけたことなんてなかった。 彼はとても真面目な人で、特に授業中の集中力はすさまじく、ノートに素早く書き込みをしていく音がいつも耳に届く。 係は確か図書委員だ。いつも字の小さい本を読んでいるあたり、本好きなのはほぼ間違いないと思う。活字をたどる彼の目はいつだって真剣で、わたしはそんな彼をこっそり見るのがだんだん日課になった。 皆の知らない久遠くんを、わたしだけが見ているように思えた。それはわたしにはっきりとした優越感をくれた。相変わらず久遠くんと話すことはなかったけど、それでも良かった。いつしか感情は色を変えた。わたしは久遠くんに恋をした。



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「山田」

あたたかい光の中ですやすやと夢を見ていたわたしは、誰かに肩を揺さぶられて目を覚ました。 誰だろう、人が折角気持ち良くねているというのに。 うぅ、と唸りながら身を起こして伸びをする。やっと頭が回転し出した時、わたしを起こした人と目が合って、あ、と思った。 「あ」 と実際声に出た。体操服のジャージを着た久遠くんは、球技大会に参加せず呑気に爆睡していたわたしを見下ろして、呆れるでも怒るでも笑うでもなく、ただただ無表情なばかりであった。その時すでに 久遠くんやべえ と常々思うほどに久遠くんのことがすきになってしまっていたわたしがどきどきし出すのは当然だった。驚いて何も言えずにいるわたしの目をまっすぐに見据えながら、彼は一言、呟くみたいに言った。

「サボろう」

締め切られた冬の教室内は暑くもなく寒くもなくて、わたしは戸惑う。



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うちの学校の図書室が広いのは知っていた。だけど、文字の羅列を見ると頭が痛くなるわたしが、授業以外でここを利用したことはなかった。 慣れた足取りで進む久遠くんの背中を追いかけながら、わたしはまだ夢の中にいるような心持ちだった。奥の突き当たり、窓際の自習席は、カウンターにいる司書の先生からはちょうど死角になって見えない、静かで孤立した空間。一番端の席にすっと腰を下ろした久遠くんの横に座り、わたしはまわりを見回す。棚の上にまで積まれた大量の本。 久遠くんがどこからか本を取り出し読みはじめたので、わたしも何か読もうかと思ったけど、結局途中で飽きるのが目に見えていたので、本を探しに立ち歩くことはしなかった。 机の上に乗せた腕に頭を置く。 ちら、と久遠くんに目線を送ってみたけれど、彼がわたしの方を見てくれるはずもなく。 ふたりきりになれたからといって、話しかける勇気が湧いてくるわけじゃあなかった。連れてきておいて何も言ってくれない彼も彼でどうなの、と思ったけど、急に話しかけられてもそれはそれでびっくりするし返事に困るので、このままが一番いいと思うことにした。 久遠くんの読んでいる本のタイトルをぼんやりと見つめながら、わたしはもう一度、夢に意識を差し出した。



*



さっきより少しだけ良い夢を見たような気がした。目が覚めると外はもう暗くて、腕時計を見たら六時半をまわっていた。隣の席に久遠くんはいなかった。わたしはカバンをひっつかんで、図書室を出た。



*



久遠くんは中学の時サッカー部だったらしい。わたしの友だちの友だちが久遠くんと同じ中学だったそうなので、仲良くなった時に聞いてみた。

「好きな子とか、彼女とか、いた?」

わたしがそう訊ねると、その子はおかしそうに笑って、 「そんな話は聞いたことないなあ」 と言って、それから、 「もしかして山田さん、久遠のこと好きなの?」 と好奇心に満ちた瞳をした。わたしは大いにびっくりして、 「ちちち、ちがうよ!」 なんてどもってしまったので、確実に好きだとばれてしまったと思う。その子はふふっと可愛らしく笑って、 「がんばってね」 とわたしに言った。わたしは何をがんばったらいいのかわからなかったけど、とりあえずがんばろうと思った。がんばればこの恋はかなうのだろうか。



*



変化というものは急に訪れるようで、それはわたしと久遠くんとの間でも同じことだった。
一枚のプリントが目の前を舞って、わたしはほぼ無意識にそれを掴んだ。久遠くんが取り落としたそのプリント越しに、久遠くん本人が見えた。

「久遠くん」

これ、久遠くんの? わたしが訊ねると、久遠くんは小さくうなずいて、ごめん、と言った。

「はい」

そっと手渡すと、今度はありがとう、と言われた。ときめきすぎて死ぬかと思った。



*



雨が降った日、体育が男子と合同になった。先生たちが楽だということで、クラス対抗のドッジボールに決まった。運動神経は良くも悪くもないので、ドッジボールは別に嫌いではなかった。適当に逃げて、適当に投げていたら、いつの間にかわたしのクラスの内野はわたしを含めてふたりだけになっていた。わたしと久遠くんだ。 敵クラスの男の子たちは、もちろんわたしの方を狙う。わたしはボールが飛んでくるたびに わあ、とか ぎゃあ、とか、可愛らしくない声を上げて逃げ回った。なかなかがんばったのだけど、段々疲れてきて、足がもつれて転んでしまった。味方の内野から残念そうな声がいくつも上がる。わたしは、敵クラスの一番うまい男子がわたしを狙ってボールをふりかぶるのを見た。 あ、当たるなこれ。 一応女の子なんだから優しい球にしてね、と祈るように思った。ボールがその男子の手を離れる。バシン、と音がして――――、わたしの前に立った久遠くんがボールをその腕でしっかりと受け止めていた。 味方から大きな歓声が上がる。わたしは目を見開く。 久遠くんが敵クラスに放ったボールは、わたしを狙っていた男子の脚に命中して床に落ちた。アウトだ。



*



苦手な英語の授業中、わたしはいつも必死にノートをとっていたのだけど、今日はどうしても集中できずにいた。 ……久遠くんが、わたしを守ってくれた。 その思いばかりが頭の中を支配していた。隣の席でシャーペンを走らせている久遠くんをこっそり見る。胸がどくんと跳ねて、 ああ、好きだなあ、 と思った。ますます好きになってしまった気さえした。ドッジボールは結局、タイムアップしたときの内野の数の差で負けてしまった。体育のあともやっぱり彼は何も言わなかったけど、わたしは十分に嬉しかった。教室にいる間は他のどの女の子より、わたしは久遠くんに近いのだ。ひとりで小さく微笑んで、英語の教科書に目を戻した。



蛹の恋






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