散々倦怠期倦怠期なんて言われるのは、多分わたしの彼に対する態度に原因があるんだとわかってはいるけど、それでもわたしは今日も彼の手のひらを握り返したりしない。なんでか、って理由を聞かれると困ってしまうのだけど、なんとなく、握り返そうという気にはなれないのだ。かと言って彼のことを嫌いになったなんてことはもちろんなくて、いまもじゅうぶんすきだし、週一でセックスもしてる。こうやって買い物だっていっしょに行く。付き合いはじめたころとなんら変わらないはずなのに、わたしはどうして彼の手のひらを握り返せないのか、自分でもよくわかっていなかった。それどころか、彼もわたしが握り返さないことについて特に何も言ってこないので、別にいいんだな、と勝手に納得してしまっている。 賃貸アパートのきつい階段は今日も可愛気なくて、わたしは気づかれない程度に息を乱しながら2階にのぼる。 部屋の前に立って、彼がポケットに手を突っ込んで鍵を探している間、わたしはぼおっと、金曜日の講義のことなんかを思い出していた。そういえばレポート課題が出ていたっけ。ちゃんと聞いてなかったから覚えてないけど、明日提出だったかもしれないし、今から始めとかなきゃ。 かちゃりと音がして、ドアが開く。中に入って靴を脱ぐとき、彼に掴まれていたわたしの手のひらは自由になっていた。はじめて手を繋いだ日は、お互い離すタイミングがつかめなくて、結局わたしの家の前まで繋ぎっぱなしだったなあ。あんなに名残惜しそうに離れていったのに、いまやこんなに何気なく離されるようになってしまって。時間ってほんとにすごいや。
わたしが黙々とレポートを書いている間、彼はテレビを見たり、コーヒーを淹れたり、溜まっていた留守録を聞いたりしていた。この前買った新しい固定電話は音声機能が良く、彼はこれがなかなかお気に入りらしく、暇さえあれば知人に電話をかけたり、すこし前の留守録を聞いたり、とにかくよくいじっていた。彼がボタンを押した直後、ふたりきりだった部屋のなかに、元気な声がひとつ足された。
『ハーイ、マーク!元気にしてる!?』
相変わらず楽しそうだなあ、あのひとは。わたしは彼が脇に置いてくれたカップから熱いコーヒーをすすり、ディランのメッセージに耳を傾ける。 『聞いてよ、ミーこの間ガールフレンドが出来たんだ!』 ―――ほほう、そうなんだ。 ぺらりとレポート用紙を捲る。残り三枚。今回の提出用には足りるけれど、次にレポート課題が出たら確実に足りないだろう。早めに買いに行かなきゃ、と思いながら、固定電話の前に立っている彼に声をかける。
「ねぇマーク」
余程旧友からのメッセージに聞き入っているのか、彼からは返事がない。わたしは仕方なく立ち上がって、彼のところまで歩いていき、ぽんと肩を叩いた。
「マークってば」
振り返った彼はなんだかすこし目を細めて、 「あぁ、ごめん」 と言った。それから躊躇いもなく固定電話のボタンをもう一度押す。部屋を賑やかにしてくれていた声がぷつんと途切れる。
「……考え事?」 「ん」
ディランの事が懐かしくなったのかな、とわたしは思った。住んでる場所が遠くなってからあんまり会ってないし、久々に声を聞いて思うところがあったのかも。
「それで、どうかしたのか?」 「……ううん、やっぱりいいや。なんでもない」
中断させてしまって悪いなあ、という気持ちと、もうひとつ、えもいえぬ不思議な感情がわたしのなかを渦巻いていた。なんでだろう、すこしだけ、ディランはいいな、なんて思っている。 マークが最近留守録ばかり聞いているのは、わたしが彼とあんまり話さないからかもしれない。話しかけられたら話すけど、自分から話しかけることはそんなになくなっている。前はあんなに溢れるくらいたくさん話したいことがあって、どれから切り出そうか悩みに悩んで、でもどれをとっても他愛のない話ばかりで。息をきらしてまで懸命に話すわたしを見て、 君といると飽きないなって言って、笑ってくれていたのに。
ここまできてやっと気づく。そうかあ、これが倦怠期ってやつなんだ。すきなのに、何か違う。いっしょにいるのに、前より遠い。ディランの方が彼に近いんじゃないかと思うくらい。
「レポートは?」 「まだ終わってない」 「そうか」 「うん」
短く答えて、わたしは俯いた。話の続け方を忘れてしまった。いつからだろう、わたしと彼の間に、こんな空気が流れるようになったのは。前は沈黙だって苦しくなかった。彼の目にわたしが映っているのが見えたら、それだけでたまらなく幸せだなあって思えていたんだけど。
「マーク」
いとしいひとの名前を呼んでいるというのに、わたしの声は弱々しく震えていた。 「わたしのこと、きらい?」 望む答えが返ってこなかったらどうしようと恐怖しながら、わたしは彼に訊ねた。こんな質問に、いったいどんな顔をするだろうと思って、おそるおそる彼を見上げようとしたそのとき、不意に伸びてきた腕がわたしを力強く包み込んだ。
「マッ、マーク、ボタンおでこにささってる!ささってる!いたいいたい、なにちょっ、やめっうえっくるしっ」 「めり込んだらいいのに」 「怖いわ!何てこと言うのマーク!」 「ばかなこと聞くからだろ」
腕の力がゆるんだすきにすかさず彼の服から距離をとる。おでこに触れてみると丸く跡が残っていた。これくらいすぐに消えるだろうけど、めり込んだらいいだなんて酷いことを言われた心の傷はなかなか深い。マークに対する文句を胸の内でぽつぽつ呟いていたら、突然顎をくいと持ち上げられて大いにびっくりした。顔が近い、と思う間すら与えられず唇が降ってきた。キスなんて久々だ。ちゅ、ちゅとわざと音をたてて、啄むみたいなキス。相変わらず息継ぎが下手くそなわたしはすぐにへろへろになって彼にしがみつく。やめてほしいような、でもまだしていてほしいような、曖昧な気分。わたしはうっすら目を開けて、マークの顔を盗み見た。……ちくしょうかっこいい。
「ぷはっ」
唇が離れたとき、思わずそんな声が飛び出した。苦しかった、殺されるんじゃないかと思うくらい長かった。ぜえぜえ言っているわたしを見て、マークは薄く笑っている。まったくもう、このひとは。優しいくせにいじわるだ。
「君のことだから、最近よくまわりの奴らに倦怠期だって言われるのを気にしてるんだろうけど」 「違うの?」 「違うさ」 「でも、」 「じゃあ何?君は俺のこと嫌いとか?」 「ううん、だいすき」 「ほら、それなら何も問題なんてないだろ」 「……マークはわたしがすきなの?」 「愛してる」 「噛み合ってないよ」
いいんだよ、と言ってマークはもう一度わたしにキスをする。今度は深いのを。行き場がわからずふよふよと漂っていたわたしの手のひらはやがて彼の手のひらに捕まえられた。 マークの舌はちょっと甘い、カフェオレの味がする。こつんとおでこがぶつかる。開かれた綺麗な色の目にわたしが映っている。幸せだと思った。
「……そういえば、さっきの考え事ってなんだったの?」 「うん?……ああ、久しぶりにデートに誘おうと思って、色々計画を練っていたんだが」 「デート」 「そう、デート」 「ディランと?」 「ばか。君と」 「あ、そう」
ふうん、デートね、デートデート……でもなんでディランの留守録メッセージ聞きながらそんなこと考えるんだろう、と思って、彼に声をかける前に流れたディランの言葉を思い出す。そういえばガールフレンドとデートしただのって言ってたような。それでだろうか?確かにデートっぽいデートはここ最近してなかったし。
「行きたくないか?」 「行きたい」
即答したわたしの頭を撫でて、マークがまじめくさった顔をして、素直でよろしい、なんて言うので、噴き出して笑った。 彼がわたしの手をぎゅっと握るから、わたしも強く握り返した。……本当は、ずっと不安だった。彼はわたしのことをもうすきじゃないのかもしれないと思ってた。別れ話に繋がるのが怖くて、あんまり話しかけなくなった。だけど心配なんていらなかったみたいだ。倦怠期だなんてもう誰にも言わせない。 わたしの心のなかにかかっていた、暗い色の雲が、ぱあっと晴れていくような、そんな気がした。
鍵穴から七色
『おいしそう』さまに提出しました。参加させていただきありがとうございました!
20110129 三井
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