ブラックコーヒーの苦い味を認識した瞬間、はっと目が冴えた。頭の上をクエスチョンマークが飛び交う。なんだ、これ?何してんだ私は? 後ろの髪を掴んで私を引き寄せているのは、紛れもなく彼なのだけど、まずそれから信じられない。床に落とされた、書き込みがいっぱいの参考書に、こつんとつま先が当たる。私とエスカバくんがキスをしている間も、図書室は古書の独特の匂いにまみれていて、それがさらに私の思考回路をぐちゃぐちゃにする。
まわりに他の生徒がいないかとか、そんなことを考えるよりも先に、私は中途半端に曲げた腰がだんだん辛くなっていくのばかりに気をとられていた。でもエスカバくんだって、椅子に座ったままずっと上を向いてて、首が痛いはずだ。

「―――……」

唇が音もなく離れ、私と彼は何も言わないまま、お互いの目を見るので精一杯だった。奇妙に長く感じる数秒のあと、エスカバくんは表情を変えずに、悪い、と呟いたので、私も小さく、ごめん、と返す。

「何、してんだろな」
「……ほんとに」

王牙学園の誇る巨大な図書室の、いくつかある自習スペースのひとつで、私たちは何故かキスをしたけれど、かといって彼氏彼女の仲とかではなかった。私が本を借りに来たら、彼がひとり机に向かって一心不乱に勉強をしていて、やっぱりすごいなあと思って横に立って覗き込んでいると、夢中だった彼がようやく私に気づいて。 何だ、名字か、って言われたから、エスカバくん偉いね、それ今度習う所でしょ、って言って。予習は大事だからと言う彼にいろいろとポイントを教わった後に、わかったか?と言いながら彼が顔を上げて、そしたら思いの外私と顔が近くて、お互いびっくりして見つめ合って、……それから。不意に伸びてきた手のひらが私の後頭部に触れて、私は何も深く考えずに背を曲げて、そのまま吸い寄せられるみたいにキスをした。私も彼もほとんど衝動みたいなもんだった。参考書を滑り落とした彼のもう片方の手が私の右腕を弱い力で握って、そのときちょうど、ふわりと苦い味がして、私は我に返った。

「無意識だった」
「私も」

変なの。ファーストキスだったのに、誰か特別な相手とでもなく、こんな風に終わっちゃった。でもそれを惜しいとか勿体ないとか思ったりもしていない。

「これ落ちたよ」

参考書を拾って手渡すと、短くお礼を言われた。図書室は不思議なほど静かだった。まるで私たちふたり以外の時間が止まってしまったみたいに感じる。

「本、借りに来たんじゃねぇの」
「あ、うん。まあ」
「じゃあ早く手続きしに行ってこいよ。今日5時までだぜ」
「うん、今から行くつもり……エスカバくんはまだここにいるの?」
「考査前は1日中いる」
「ふうん……」

それを聞いたからって、ここに残って一緒に勉強したいなどと思うことはなく、がんばってね、とだけ言って、私は再びカウンターに向かって歩き出した。去り際、またカップからブラックコーヒーを飲んでいるのがちらりと見えた。私のファーストキスは少し苦かった。




*




彼氏とはじめてキスした次の日はまともに顔も見れなかった、なんて友達が言っていたから、どんなものなんだろうと思っていたけれど、やっぱり彼氏じゃないからなのか、翌朝ロッカーでばったり彼と鉢合わせてしまっても、 「あ、おはよう」 なんていたって普通の口調で言えるくらいの余裕があった。

「……おう」

対する彼だって、特にいつもと変わらない。なんだ、なんだあ、キスなんてたいしたことないじゃない。私はほんのちょっとだけ残念に思いながら、自分のクラスの席についた。エスカバくんは私のふたつとなり、窓際後ろから2番目の席で、ガラスの向こうなんかを見てる。昨日の出来事なんてまるでぜんぶなかったみたいだ。

もしかしたら夢でも見てたのかな、私疲れてるのかな、そう思っていたとき、教師が私の名前を呼んだ。テキストの問題を前に出て解けということらしい。せっかく電子パネルなんていう便利なものがひとり1台与えられているのに、未だに黒板に書かせるなんて古風だなあ、と頭の中で文句を言いながら、すたすたと前に歩み出る。 あ、これ昨日エスカバくんが丁寧に教えてくれたやつだ。

「正解。名字、しっかり予習出来ているようだな」

実力社会であるこの学校で教師に誉められるのは、この上なく嬉しいこと。私は素直に喜びながら、足取りも軽く自分の席に戻る途中、こちらを見ている男の子に気がついた。

『 よ か っ た な 』

口の形だけでそう言ったあと、エスカバくんは何もなかったかのようにまたテキストに目線をおろす。私は半分呆然としながら席にかえって、それから自分の頬を触って、その熱さにびっくりした。なに、これ、どうしたの私。
教師の言葉も、テキストの文章も、もう何も頭に入らない。シャーペンを持つ手には力が入らないし、すべてが私の思い通りになろうとしない。なんだっていうんだ。どくんどくんどくんという心臓の伸縮する大きな音に邪魔されて、まったく集中が出来ない。息の吸い方すら初心者みたいになって、わけがわからなくなって、助けを求めるように左を見たら、真面目な顔してテキストに取り組んでるエスカバくんが見えて、昨日私を下から見上げていた彼を思い出した。心のなかの私がギャアと悲鳴を上げた。あの時はなんともなかったのに、今更どうして? 平静を装って自習ノートにシャーペンを滑らせようとしたら、筆圧が強すぎたのか、気持ちいいくらいボキィと折れた芯が右目を直撃した。踏んだり蹴ったり、だ!



1. はじまりのキス






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