「お、怒ってるの?」

いつもにも増して早足なバダップを、ほぼ走るようにして追いかけながらたずねる。彼はわたしの方を一度たりとも振り返ってくれない。その代わりに、玄関ホールを出て中庭を横切っている途中、またもや他の生徒たちのくすくす笑いと視線をもらった。最初はびくびくしていたけれど、今となってはもう怒りさえ感じた。わたしがバダップの横にいてなにが悪いの。監視されて、しかも軍人になれる見込みがあるなんてお偉いさんたちに思われているわたしの事情をまるで知らないくせに何がそんなに面白いの。お母さんは出てったし大好きなクラブにも行けなくなったし、友達と電話もメールも出来ない、そんなわたしを見てどうしてこそこそ話すの。 まったく、軍人養成学校なんて名ばかりじゃない。ここにいるのは、わたしたち凡人となんら変わらない少年少女だけだ。わたしをちらちらと見ながら通り過ぎていった女の子の二人組をぎっと睨んでいたら、突然前を行くバダップが立ち止まって、わたしはもろに彼の背中に顔をぶつけてしまった。

「っわ、な、なんで急に立ち止まんの」

聞いたところでバダップは答えちゃくれなくて、むしろわたしの存在など忘れてしまったかのように前を見据えていた。わたしはそろりと彼の後ろから身を乗り出す。つんと跳ねた黒髪の――、今朝わたしとバダップに向かって叫んだあの男の子がそこに立っていた。 「あっ」 わたしは思わず声を上げたけれど、バダップはもちろんその男の子も、わたしの方なんかちっとも気にしちゃいない。なんだこの仕打ち。わたしなにか悪いことしたか?いい加減泣くぞおい 「聞いたか?」 わたしの思考を遮るように男の子はバダップに問いかけた。

「何を」
「モニター室からの連絡だ」
「……ああ」

そんなこと、と言いたげにバダップが首を振る。

「いつでも準備は出来ている」
「そりゃ俺もさ。だがお前はその女、どうするつもりだ?」

男の子にいきなり指差され、びっくりしたわたしは思わずバダップの後ろに隠れた。な、なに?わたしをどうするって、なに?

「別にどうもしない。監視くらい他にいくらでも代わりがいるだろう」
「おいおいいいのかよ。別の奴とそいつを一緒にいさせるなんて」
「俺は一向に構わない。こいつは上の期待を得てるんだ。放っておいても手荒に扱われはしない」
「いや、俺が言いたいのはそういうことじゃなくてだな」

話の内容自体はよくわからなかったが、なんとなく、バダップはわたしの元を離れるのかもしれないと思った。彼がわたしの監視役を降りたら、他の人がわたしの監視役になって……。もしそうなればわたしはその人と残りの日を過ごすことになるわけで。それはわたしにとって、再び訪れる大きな不安だ。

「……やはり、妙な噂を流したのは君か。そのせいでとても迷惑をした」
「おいおい、俺はそんなことしてねえぜ。ただ、ミストレの奴に教えてやったとき、あいつのまわりの女子たちには聞かれたかもしれねえが」
「元凶は君じゃないか」

知っている人の名前が出たので、わたしはどきりとした。ミストレに教えてやった……?ということはもしかして、この人がエスカバさんかな。わたしがそう考えていたら、バダップが答えをくれた。

「エスカバ、君が何を勘違いしているのか知らないが、俺はこいつの監視役であって、他の何でもない。作戦には何の支障もきたさない」
「へえ、じゃあこいつには何にも特別な感情は持ってねえってか」
「無論だ」

ずきり、胸が痛んだ。……あれ、なにそれ?そんなの、まるでわたし、ショックを受けたみたいじゃない。バダップはわたしの監視役で、それ以上でもそれ以下でもないのに。特別な感情ってなに?わたしはそれを期待していたとでも?そんなわけない、わたしは一刻も早く家に帰りたくて。

「ふーん、そうかよ。余計なこと言って悪かったな。……じゃあな、バダップ」
「ああ」

バダップは短く返事をし、エスカバの横を通り過ぎまた寮へ向かって歩きはじめた。わたしは一瞬ぼうっとしていたが、すぐに追いかけなきゃと思い小走りで彼の後をついて行こうとした――が、ぱし、と腕を掴まれて立ち止まった。エスカバがわたしを見下ろしていた。

「あの……えっと、何か?」

わたしがおどおどしながらたずねると、エスカバは少し目を細めて、 「……いや、何でも」 と言った。 「じゃあ、手を」 「あのさ」 離して、と言う前に、エスカバが短く言葉を発した。

「お前は、どうなんだ?」
「えっ?」
「バダップのこと。どう思ってんだ」
「……ど、どうって言われても」

どう……思ってるんだろう?わたしはバダップのことを、最初は怖くて、嫌いで、でも今は?ううん、わたしが彼をどう思ってたってしょうがないよ。

「バダップは、わたしのことが嫌いなんだよ。本人からそう聞いたもん」
「……嫌い、ねえ……」

エスカバはそう呟いてから、わたしの腕を離した。

「まあいい、もう行けよ。引き止めて悪かった」

背中を押されながら、わたしは彼を振り返る。何だったんだろう、何か他に言いたいことがあったんじゃないのかなあ。 「待って、あの、もしかしてバダップは、どこかに行っちゃうの?」 わたしの問いに、エスカバは顔をしかめる。 「お前は、知らなくていいことだ」 …………どうして?わたしが正式な王牙学園の生徒じゃないから?軍人を目指していないから?監視対象だから?

「エ、エスカバさん、」
「いいから行けよ!お前には関係ねえんだ!」

突然怒鳴られ、わたしはびくりと飛び上がった。口調は荒々しかったけれど、彼の目にはどこか寂しそうな色が含まれていたから、わたしはますます気になってしまう。一体なにがあるって言うんだろう。そしてそれにはバダップが関わっていて、わたしは、わたしはバダップが、バダップのことが。……わからない、心配なのかもしれない。彼がいなくなったらひとりになってしまうから、それが怖いのかもしれない。なんにせよわたしは、すべてを知る権利なんて持ち合わせていないみたいで、それがすごく悔しかった。




*




1009号室のプレートはきらりと光り、キーを持たないわたしを拒んだ。いつもはバダップについてきていたから入れたものの、彼がいないとわたしは中に入ることが出来ない。エスカバに引き止められ、エレベーターに乗り込んだ彼に追いつくことができなかったのだ。窓はないし、中にいるバダップを呼ぶ手段もない。……どうしよう、他に行くところないしなあ。 そう思って途方に暮れかけたとき、ロックの外れるような音がして、ドアが開いた。わたしを映す赤の瞳は、さっきまでのような威圧感を抱いていなかった。

「……入らないのか?」

呆然と立ち尽くすわたしに、バダップが静かに問うた。怒っていたんじゃないの、とも思ったけれど、今そんなことは聞かない方がいいような気がして、わたしはただ一言、入る、とだけ言った。

わたしを飲み込んでドアが閉まる。部屋の奥へ歩いていくバダップの背中を見つめる。言いたいことはいくつもあった。だけど何から言ったらいいのかわからない。ベッドに腰かけ悩ましげに俯いたバダップは黙ったまま何も言わないから、わたしだって何も言えない。言葉は便利だけど不自由だ。この気持ちを表す単語がどうやっても見つからない。

「バダップ」

彼の前に立ち、震えた小さな声で名前を呼ぶのですら、息が止まりそうなくらいに難しい。ゆっくりと顔を上げたバダップはわたしを見つめ口を開く。

「何だ」

なんとか探り出した言葉と言葉を繋げ、わたしはそれを声にしようとした。だけどそれは掠れた息になり、その代わりに、目からぽたりと雫がこぼれ落ちた。みっともないと思った。だけど涙は止まらない。

「ゆい」

バダップがわたしの名前を呼ぶのをはじめて聞いた。彼の大きくてあたたかい手がわたしの手を掴む、いや、握る。そっと包むように、それはそれは優しく。

「……わたしのこと、嫌い?」

こんなことが聞きたいわけじゃないのに、わたしの意思なんて関係なしに言葉が飛び出した。嫌いと言って欲しい、と思った。だけど反対に、嫌いじゃないと言って欲しいとも思った。なんて矛盾だ。

「俺はそんなことを言ったか?」
「言ったよ、出会った日の夜に」
「そうか?俺は覚えていないな」
「な、なにそれ、ひどい」
「忘れたものは仕方ないだろう?」

す、と音もなくバダップが立ち上がり、わたしは思わず後ろに一歩退いたのだけど、ぐいと手を引かれてそのまま、彼の逞しい腕の中に捕らわれた。

「……どうやら俺は約束を守れない。もうすぐここから居なくなるからだ」
「どうして居なくなっちゃうの?」
「それは言えない。ただ、君が探しても絶対に見つけられない所へ行く」

今までお前、お前と呼ばれていたのに、ミストレやエスカバと同じように君と呼ばれたことに、わたしはなんだかすごく照れてしまう。少しは心を許してくれたのかもしれない、ううん、もしかしたら――――。

「監視が終わる日が来たら、君は自分の家に帰れ。俺のことは忘れろ」
「どうして」
「君と俺は生きる世界が違う」
「わたしも今は王牙学園の生徒だよ」

わたしがすがりつくように彼の制服に指を這わせたら、その指に彼の指が絡まる。離れたくなんかないと素直にそう思った。

「忘れてあげないよ、絶対」
「相変わらず生意気だな」
「だって、忘れたくない」

だだをこねる子供のようなわたしの言葉に、バダップは小さく笑った。彼はこんなふうに笑うんだ。

「いつ帰ってくるの?」
「わからない。すぐ戻るかもしれないし、しばらく戻らないかもしれない。何があるかわからないからな」
「待つよ。……この学校で、わたしはバダップを待ってる」
「家には」
「帰らない」

だって、家に帰ったところで、誰かさんのせいで待ってる人もいないしね、と皮肉っぽく言ったら、 「俺のせいか?」 と純粋に返された。うーん、いや、あれはお母さんが薄情だっただけかもしれない。

「俺がいなくてもここでやっていけるか」
「わたしを誰だと思ってんの」
「……全く、いい性格をしている」
「あはは」

わたしは笑いながら、彼にぎゅうと抱きついた。どこに行くのかは知らない。いつ帰ってくるかもわからない。バダップの代わりの監視役がいやなやつかもしれないし、学校ではいじめられたりするかもしれない。だけどひとつだけわかることがある。

「あのね、わたし多分バダップのこと、好きだよ」
「多分?」
「うん。今は」
「そうか」
「だめかな?」
「いや。構わない」
「……バダップは?」
「さあな」
「えええ?言ってよ」
「拒否する」

拒否すんな!と言いかけて、「きょ」の形に開いた唇を、柔らかくて熱い唇に塞がれた。ひどい、不意打ちなんてひどい。わたしははじめての感覚に戸惑いながらも、後頭部を支えている手と、伏せられた瞼と、頬に触れる彼の銀色の髪とに、どうしようもなくこのひとが好きだなあと感じた。恋なのかどうかはまだよくわからないのだけど。

「っ、はぁ」
「……苦しかったか?」
「だ……大丈夫」

バダップは再度わたしを抱き締め、それからそっとわたしを解放した。

「飯を食いに行くか」
「食堂には連れて行きたくなかったんじゃないの?」
「愚問だな。俺と君の仲はもう全校生徒に知れ渡っている」
「それもそうか」

わたしは明るく笑って、バダップの手を引いた。

「行こう、お腹空いた!」




*




朝目覚めると、隣にあった温もりはもうなくて、わたしはものすごく寂しくなったけれど、それでもぎゅっと唇を噛み締めて、どこか遠くへ行ってしまった彼の無事を祈りながら、綺麗に折り畳んだ制服に手を伸ばした。

「おはよう!」

わたしが声をかけたら、クラスメートたちはみんながみんな驚いた顔をする。すがすがしい朝だった。席につくと、ポケットのなかで、1009号室のルームキーがしゃらんと軽快な音を立てる。頑張ろうと、そう思った。


Un ogre et au revoir.


Être continuent...







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