わたしがバダップの彼女であるという噂は瞬く間に生徒の間で広がったらしい。移動教室で場所がわからないのでバダップの後ろについていったら、いたるところでこそこそと話す声が聞こえてきた。今になって気付いたけれど、バダップはどうやらこの学園ではだいぶ高い評価を受けている有名人のようだ。何もかもが段違いの彼に腹を割って近づく者は少なく、教師ですら彼には一歩引いているように見えた。 そんな彼と行動を共にする女の子が急に現れたら、そりゃ話題にもなるだろう。あのバダップが、嘘だろ? という囁きを、わたしは今日だけで幾度となく聞いた。当のバダップ自身は対して気にもしていないようだったけど、表情に出ない彼のことだから、本当のところどう思っているのかはわからない。
「ねえ」
目前でふわふわと揺れる彼の袖を、今は掴むことが出来ない。廊下を歩いていた女子ふたりがくすくすと笑っていて、わたしは恥ずかしくなって教科書で顔を隠すようにしながらバダップにかけよる。
「あの……わ、わたし、離れてた方がいいんじゃないかな」 「それでは監視にならない」 「で、でも、みんなわたしを見てる」 「放っておけ」 「そんなこと言われたって……」 「見られないように自分で考えて行動しろ。お前はそんなことも出来ないのか」 「な、なにそれ」
わたしが立ち止まっても、バダップは振り返ってもくれず、目的の教室に向かってひたすら歩いていく。……なによ、なによその態度!元はと言えば最初から全部、バダップのせいなのに。……よし、決めた。わたし、もうバダップに近づかない。なにが監視よ、わたしのところに戻ってもこないくせに。いいわよ、ふらっといなくなってやる。家に帰ったら連れ戻されそうな気がするから、学校のなかのどこかに隠れよう。こんなに広いんだから、きっとそれくらいの場所はあるはず。 わたしは教科書を握る手にぐっと力をこめ、意を決して、今来た廊下を小走りで引き返した。
*
屋上というのは、ありきたりで、すぐ見つかるように思われるけれど、残念わたしは少し賢いので、フェンスをよじ登り、入口からはどうやっても見えない貯水槽の裏にしゃがみこんだ。6時間めの理科の実験をさぼってしまったけど、全然問題はない。あんな難しい実験、わたしの中学ではやらないもの。だからさぼったって、自分の中学に戻ったとき困りはしないのだ。
「ふう…………」
あたたかい風が耳元でひゅうと音をたてる。……バダップのばかやろう、昨日の夜は優しかったくせに。面倒見てやるって言ったくせに。
夏前の穏やかな空気に促されるように目を閉じると、クラスメートの友達の顔が浮かんだ。みんな、どうしてるかな。わたしのこと、すこしは考えてくれてるかな。一週間で忘れられちゃったらどうしよう。メールだけでも、したいなあ。……でもそのためには、一旦家に帰って、携帯電話を取ってこなきゃならない。お父さんにも連絡したいし、――――って、そうだ、今思ったけど、わたしもお母さんとおんなじように、お父さんのいる外国に行ったらいいんじゃないの?さすがにそこにまで追っては来ないだろう。
「国外逃亡かあ」
なんだか情けない響きだなあ。負けを認めてるみたいで、ちょっと気に入らない。かと言って、あんな風に注目の的になりながらやっていくのなんて、とてもじゃないけど耐えられない。バダップの彼女、だなんて、だってわたしには――――。
「あ、みーつけた!」
頭上から明るい声が降ってきた。サッと血の気が引いた。うそ、見つかった! あわてふためきながら立ち上がり振り返ると、貯水槽の上に人影がひとつ。バダップでないのは声でわかったけれど、わたしは身構えて臨戦態勢をとる。だ、誰だろう、わたしを探しにきたのかな。
「なに、戦っちゃう感じ?オレ今そんな気なかったのに」 「えっ、あっ…………?」
きれいな顔をしていたから、てっきり女の子だと思ったため、ふいをつかれてしまった。お、男の子、かあ、なんだ、いやなんだじゃなくて、男の子だったらさらにかなわないじゃない!王牙学園の生徒でも女の子ならまだなんとかなるかと思ったのに……!
「あれ?どうかしたの、固まっちゃって」 「へ、あ、いや、び、美人さんだなあって思って」 「…………へえ?」
その男の子は、特徴的な左右の結われた髪を指で弄びながら、少し首を傾げてわたしを見つめる。やばい、癇に触ってしまったかも。わたしがびくびくしていると、彼はふわりとその美しい頬をゆるめて、 「なんだ、君いい子だね」 と言って笑った。
*
「エスカバから君のことを聞いたときはオレもびっくりしたけどね。あのバダップが女の子連れ歩くなんておかしいと思ったよ」
ふふ、と楽しそうに笑う彼の名前はミストレーネというらしい。一瞬わたしのすきなスープが頭に浮かんだけれど、そんなことは口にできるはずもなかった。そう呼んでくれと言われたので、彼のことはミストレと呼ぶことになった。
「監視、ね。それにしては随分と甘いみたいだね、彼は」 「……よくわからないんだけど、もしかしたら怒らせたのかもしれない。機嫌悪そうだったし」 「ふうん?まあ、彼の怒り方はオレにはちょっと理解できない部分があるけど。どんな事情にせよ、こんな可愛い女の子を連れて歩けるなんて、もっと喜ぶべきだと思うな」
やれやれ、という感じでミストレが言う。わたしはなんとなく、個性的な人だなあ、と思った。話しぶりからして、もしかしたらバダップの友達なのかもしれない。
「……ミストレは、バダップとはどんな関係なの?」 「オレ?うーん、そうだなあ……、好敵手、とでも言っておこうかな。彼はそう思ってはくれてないだろうけど」 「ライバル……。仲良しなわけじゃないんだね」 「……そういうわけでもないけど。まあ、全校生徒の中では親しい方だね」
難しい言い方をしているけれど、たぶん友達なんだと思う。他の生徒たちはバダップを少し怖がって避けているような感じがあったけど(というかバダップが一匹狼っぽかったけど)、ミストレはなんだか、慣れているというか、バダップの名前を呼ぶのにまったく抵抗がないみたいだ。
「それで、君はこれからどうするの?ここを出ていくつもりだったんだろうけど、やめておくことを勧めるね」 「……どうして?」 「決まってるじゃないか。一度監視下から逃れようなんてしたら、次はどういう措置をとられるか……君は知りたいかい?」 「……遠慮します……」
ミストレは終始笑顔だったけど、わたしはあまり彼とお近づきになりたいとは思えなかった。なんというか、底知れないというのだろうか。何を考えているのかわからないところがある。バダップはあんな感じのわりに、感情に素直だと思うんだけど。
「……ところでゆいちゃん、君はいい子だけどなんだかちょっとつまらないね」 「へっ?」
つまらない?何が?確かにわたしは自分は面白くない性格だと思うけど、自覚はしてるけど、出会ったばかりの男の子に突然つまらないなんて言われるのは心外である。
「あ、いや、違うんだよ?そういう意味じゃなくて。ほら、オレってこんな顔だから、結構女の子に人気があるんだけどね。君はどうあってもなびいてくれなさそうだ」
……ミストレは別に、他意があって言ったわけじゃないと思うのだけど。わたしの脳裏に浮かんだひとりの男の子は、ここに来てから半ば忘れかけてしまっていた存在で。わたしにとってとても大切な人だったはずなのに、何故だかわからないけど、今は彼よりも違う男の子が心のなかにすみついていて。
「好きな子いるの?もしくは、いた?」
ミストレは口元に笑みを浮かべながら、わたしにたずねる。わたしは口を開いて、声を発しかけて、でもそれが言葉になる前に、思考がすべて止まってしまった。
「お迎えのようだね、ゆいちゃん」
いつの間にか7時間めも終わっていたらしい。にこにこと笑顔のままのミストレと対照的に、ミストレの少し後ろにいるバダップは、あの朝と同じ、冷たい目をしていた。
「バダップ……」
わたしが名前を呼んでも、彼は何も言ってくれなくて、それは当たり前と言えば当たり前なのだけど、それでも昨日の夜とでは、わたしと彼との間に流れる空気は全く違っていた。
「ごめんなさい」
わたしの言葉に、バダップは少しだけ眉をつり上げる。
「帰るぞ」
L'ami d'un ogre et moi et l'ogre.
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