部屋にわたしのものは何もなく、やることもないので、ただじっと椅子に座り膝を抱えていた。窓の外はもう真っ暗だ。だけど、まだ晩ごはんも食べてないしお風呂にも入ってない。いや、お風呂は部屋についているから入ろうと思えば入れるのだけど、下着もパジャマも持っていないから入るに入れないのだ。 バダップは数分前に部屋を出ていったきり戻ってこない。ぽつんと取り残されてしまったわたしはテレビをつける気にもなれず、ひたすらぼうっとしていた。 ……はっきり言って、まだ夢のなかみたいだ。わたしがあの王牙学園に転校して、こうして寮にいて、……男の子と相部屋で。男子と同じ部屋っていろいろだめだと思うんだけど、あのバダップのことだからきっと上の人たちに信頼されているんだろう。
低血圧のわたしが椅子で眠るには少し寒いので、クイーンサイズのベッドの上にたたまれて置かれていた柔らかい毛布を一枚拝借した。それにくるまるように身を縮めて、考えるのは、お父さんとお母さんのこと、学校のみんなのこと、クラブの友達のこと、……部長のこと。 突然転校なんかして、みんな驚いているかな。もしかしたらみんなメールや電話をくれてるかもしれないけど、学校に行くときは携帯電話は家に置いていくので、今手元にはなかった。
隣の1008号室からは何の物音もしない。誰もいないのか、もしくはとても静かな人なのか、それとも防音設備がしっかりしているのか。どれかなんてわたしにはわからなかったし、そんなことどうでもよかった。自分のことで精一杯だ。
何分ほどそうしていただろう。バダップが部屋に帰ってきたとき、わたしは重たい瞼を閉じていて、揺り動かされて目を覚ました。なんだかいい匂いが鼻をかすめる。
「あ……おかえりバダップ……」 「食え」 「……んー……?」
ごしごしと目をこすると、ぼやけた視界に白いご飯と焼き魚と味噌汁とおひたしの小鉢が映った。
「……晩ご飯、持ってきてくれたの?」 「お前を食堂に連れていくといろいろ厄介だからな」
バダップはどさ、とベッドに腰をおろし、袖を通していた軍服を脱いできっちりとたたんだ。下に着ていた黒いタンクトップからは、しなやかな筋肉がのぞく。小麦色のいかにも健康そうな肌の色がまぶしいくらいだ。同じ学校のどこを探しても、こんな身体を持つ男子はいないと思う。お腹がすいていたのに食べるのも忘れ、彼をじっと見つめた。いったい今までどんな生活をしてきたんだろう。わたしには想像もできない。
「…………俺に何か文句でもあるのか?」 「うぇっ!? あ、いや、ううん、ちがっ、あの、す、すごいなって、思って」
訝しげな瞳がわたしをじろりと見た。数秒でも見とれてしまっていたわたしはあわあわと目を泳がせながら、あの、その、えっととばかり繰り返す。
「バ――バダップって、わたしとはほんとに住む世界が違うんだなって、思って。なんか……昨日の自分が恥ずかしくて」 「どういう意味だ」 「だから、……ほっぺたぶっちゃって、ごめん、痛かったよね。わたし、ついカッとなっちゃって。いつもそうなの、相手の事情とか考えないままに行動して、迷惑かけて。バダップはあの時、子供たちに怪我させたりはしなかったのに、わたしがくだらないことしたせいで、監視役なんかにされちゃって、嫌だったでしょ?それなのにわたし馴れ馴れしくして、絶対うざかった、よね。もう、なんか……わたしってどうしてこうなんだろ……ごめんね、バダップ」
言い終わったあと、目頭が熱くなってしまった。だめ、泣いちゃだめ。お父さんに言われたじゃない、泣いていいのは親が死んだときとテストで99点とったときだけだって。あと1点の重みを知る人間になれって。潤む目をごまかすようにこすっていたら、ぱし、とその手を掴まれた。いつの間にか立ち上がっていたバダップがわたしを見下ろしていた。
「バダップ……?」
怒ったのかな、と思って、彼の顔を見るのが忍びなくなってうつむくと、わたしのよりひとまわり大きな手のひらが頭に触れた。ぽんぽん、と二度わたしの頭を撫でたその手はするっと後頭部に降りて、そのまま軽くわたしの頭を引き寄せた。わたしの目の前には黒い布地があって、それはバダップのタンクトップで、その下は中学生らしからぬしっかりとした胸板で……あれ、わたし、…………なななななななにこの状況!
「お前は生意気な方がいい」
すぐそばでバダップの声がして、わたしは飛び上がりそうになった。し、信じられない、わたし、もしかして、バダップに抱き寄せられた、の? どくどくと心臓がうるさい。触れている部分から伝わってしまいそうで少し怖い。な、なんだ、不意打ちなんて卑怯だ。こんなの、どきどきしない女の子なんてきっといない。
「一週間はちゃんと面倒を見てやる。俺に対する余計な心配は要らない。…………まあ、あの平手打ちはなかなかに効いたがな」
どきどきの意味ががらりと変わった。
「ご、ごごごごごめんなさいごめんなさいごめんなさいわたし力は強い方であのほんとすいませんごめんなさい」 「許さない」 「ええっ」 「と言ったら?」 「な、」 「冗談だ」 「ええええええ?」
なんだか何もかもが急すぎてついていけない。バダップがこんなこというなんて考えてもみなかった。わたしはやっぱり、彼のことを誤解していたのかもしれない。だって、わたしの背中にある手はこんなに優しい。だから、そっと離れていってしまうのがとても名残惜しい。
「……さっさと食べて風呂に入って寝ろ。遅刻するのは本当に許さない」 「わ、わかってるよ」
わたしは椅子に座り直し、お箸を手にとっていただきます、と小さく呟いたのだけど、頬の熱はなかなか下がってはくれなかった。
*
キシ、と床が軋む音で、わたしはうっすらと目を開けた。何かがごそごそと動くのがなんとなくわかった。なん、だろう?はっきりしない頭で考えたけれど、結局よくわからなくて、考えるのはやめにした。そんなことより、眠い。
「―――はい。こちらは問題ありません。命令が出ればいつでも向かえます」
バダップの声がする。誰かと話してる……?電話か何かかな。命令、ってなんだろう、……うーん、なんだか背中が痛い、椅子で寝てるからかな……、でも、とりあえず、まだ寝よう……。
「……起きたか?」
さっきの声より随分とくだけた口調でバダップが言った。わたしに対して言っているのかもしれない。だけどすでに半分眠ってしまったわたしは返事が出来ない。バダップ、わたし、起きてるよ……。言いたいけれど、口も目も開かない。 ごく静かな足音が聞こえた。バダップがわたしの方に近づいてきたらしい。
「……気のせいか……」
耳まで寝てしまったのかもしれない。あのバダップの声が、なんだか優しく響いた。やがて、彼が貸してくれたぶかぶかのシャツから出ているわたしの脚に、何かあたたかいものが触れた。そして、首の後ろにも同じ感触。この感じは覚えている。頭を撫で、わたしを抱き寄せたあの手―――。 ふわりと浮いた身体は、わたしのものではなくなってしまったかのようだった。膝の裏にある腕がくすぐったい。肩を押さえる手のひらがあったかい。やっとのことで開いた目は、下からのアングルでバダップを映した。だけど彼と目が合う前に、わたしは目を閉じてしまい、そのまま意識が手もとから離れていってしまった。
*
がばっ、と勢いよく起き上がったとき、部屋のなかにはまばゆい光が何本も降り注いでいた。朝、だ。…………こんなにすっきりと目覚めたのは何年ぶりだろう。寝癖のついた髪を手ぐしでとかしながら、ふと隣を見て、それから愕然とした。
「バ…………バダ、っえ、うそおおおわたし、あれっ、椅子で寝たはずじゃなかったっけ、なんで、な、ふぇえ、うそやだちょっ」
お父さああああああああん!と心のなかで叫んだとき、わたしに背を向けるようにして眠っていたバダップが小さく動いて、 「うるさい」 と非常に機嫌の悪そうな声でおっしゃったのでわたしはあわてて口を手で押さえた。……あ、れ?わたし、寝ながら布団に潜り込んだのかな?いやいやでも一回寝たら地震がきても起きないわたしがそんなことする?環境が変わったからかな?いや……でも……男の子の寝ている布団に潜り込むなんてそんなハレンチパンチな……!うわああああんお父さんどうしようわたしもうお嫁にいけないのかなあ!
「ど……どうしよう……」
頭がまっしろだ。こんなとき、どうしたらいいんだろう……!ああもう、学校っていうのは教科書に載ってることしか教えてくれないんだから!人生のうまい過ごし方とか、人間関係で困ったときの対策法とかは触れてもくれないんだから……!!
「……まったくお前は……少しは落ち着けないのか」
そうこうしている間に隣のバダップが頭を押さえながらむくりと起き上がって、 「きゃああああ!」 という叫び声が口から漏れた。
「うるさいと何度言えばわかる」 「ご……ごめん、でもわたし、あの……」 「とりあえずその捲れ上がった服を直してから話せ」 「え?……あ!!」
昨日寝巻き代わりに借りたTシャツがめくれて、わたしのぱんつが見えてしまっていた。バッと隠したものの、確実に見られてしまっただろう。わ、わたしのお気に入りの花柄ぱんつ……!恥ずかしくてたまらなくてバダップをにらみつけるように見たけれど、当の彼はわたしなど眼中になく、枕元に置かれていた小さな本を手にとり開いていた。……ちくしょう、まったく興味なさそうな態度しやがって……!それはそれでなんかむかつくしショックだぞ……!わたしは少し拗ねながらバダップを見つめたあと、ベッドから降りて洗面所に向かうのだった。
*
「……よしっ!」
ぱちん、と制服の留め金をかけおわり、わたしは気合いを入れた。王牙学園での学生生活、ついに2日目。初日の手応えはなかなかだった。昨日の夜復習もばっちりしたし、今日も遅れをとるつもりは微塵もない。鏡の前でキッと表情を険しくするわたしの後ろに映り込んだバダップが、少しは呆れたような顔をしていたけど、それでもわたしの気分は上々だった。
朝の日射しのなか、中庭をバダップとふたりで横切る。相変わらず彼は歩くのが早くて、わたしはそんな彼の制服の袖の肘のところをちょっとだけ掴んで、後ろを早歩きでついていく。バダップはわたしに袖を掴まれることに慣れてしまったみたいで、もう咎めたりはしなかった。
「……あ、そういえば」
昨日彼がいいかけたことを、ふと思い出した。わたしは軍の偉いさんたちに、危険因子として目をつけられつつ、期待もされているって。あれってどういうことなんだろう? 気になったので聞いてみたら、バダップは少しだけ額にしわを寄せて、 「珍しいからだ」 と短く言った。珍しいって、なんだ?
「今の時代の庶民どもはみんな、人と競おうとしない。友達や仲間という言葉に酔いしれて、闘争本能を失くしてしまっている。そんな中でお前は、競い合うことにやりがいを感じ、さらに上を目指す向上心も備えている。軍はお前のような奴に飢えているから、隙をついて引き込もうとしているのだろう」 「な……き、競い合うって、それは成績面じゃない!わ、わたし、もしかして軍人にされちゃうの!?」 「さあな。だが兵士に平気で平手打ちをするくらいだ、素質はあるのかもしれない」
そ、そんなあ……!わたし一昨日まで平凡な女子中学生だったのに、まさか軍に目をかけられるなんて。バダップとはちょっと打ち解けてきたような気でいるけれど、軍の偉いさんたちと話したりなんて、絶対にむりだ。ああ恐ろしい、考えただけで死んでしまいそう。
校舎本館の正面玄関に入ったあたりで、わたしはいくつかの視線を感じた。生徒たちがちらちらとこっちを見ている。
「バ、バダップ、なんかすっごい見られてるんだけど……」 「俺の傍にいたら見られもするだろう」 「え?」
そのとき、廊下の奥から玄関ホールに向かって歩いてきていたひとりの男の子が、ぴたりと立ち止まって目を丸くしてわたしを見て、バダップを見て、またわたしを見て、それから驚いたような声で言った。
「な、なんだァ!?バ、バダップ、お前、おっ……女いたのかよ!」
彼の言葉は、わたしたちを観察するように見ている他の生徒たちの心をも表しているようだった。
「…………はぁ、」
バダップが小さくため息をついた瞬間、なるほどこういうことか!とわたしは思った。昨日の朝、彼がわたしを無視し続けたわけが、今やっとわかった。こんな風に、なんだかとんでもない誤解を生むことが、わかっていたからだったんだ……!!
Un ogre et moi et grand malentendu.
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