水たまりを思いっきり踏んづけてしまい、お気に入りの靴下はたぶんドロドロになっているのだけど、わたしはそんなことには一切構わず、走って走って、ひたすら走った。ええと、確か、ひいおばあちゃんが陸上界のすごいひとだったんだっけ?いやまあひ孫のわたしにそんなの遺伝してないとは思うんだけど、というか陸上なんて興味すらないけれど、いまだけ、ひいおばあちゃんわたしに力を貸して!とそんな気分。なんでかというとまあクラブに遅刻しそうだからというありきたりな理由で。家から雷門中まではそんなに距離がないものの、わたしは運のない体質なのか、よく信号に引っかかってしまうから、急がないと今日もたぶん間に合わない。
ちかちかと点滅する信号は青だったと思い込むことにして、わたしは走る、走る走る走る!さて目の前のこの公園を通り抜けたら近道、さあさあラストスパート!
わたしがぐん、と速度を早めた途端、冷たく低い声が耳に届いた。

「とぼけるな。今ここで何をしていたと聞いている」

かつてサッカーのコートがあった場所で、軍服を着た男が、座り込んでいる3人の男の子を見下ろしていた。ニュースをみないわたしでも、なんとなく状況はわかる。サッカー禁止がうたわれはじめたこのご時世で、男の子たちはボールを蹴って遊んでいたんだろう。それを革命派と呼ばれている、サッカーをなくそうとする軍隊の兵士に見つかってしまったのだ。

かわいそうだけど、わたしなんかが兵士に反抗したりしたら、なにが起こるか想像しただけでも恐ろしい。それにクラブにも遅れちゃうし、そしたら部長にまた叱られるし、――――ごめんね少年たち、薄情なわたしを許して!

「ひどいよう、かえして!」

こっそりとはしっこを通り過ぎようとしたとき、男の子の泣き声が聞こえて、わたしは思わず脚をとめる。 「――――あ……」 軍服の兵士が、男の子からサッカーボールを取り上げていた。ボールの持ち主らしいひとりの男の子が立ち上がって取り返そうとするのをほかのふたりが引っ張って止めている。そりゃあそうだ、兵士に逆らったりなんかしたらあの子だってただじゃすまないはず。

「サッカーはお前達には必要ない」

男の冷たい声のあと、パァン!と大きな音がして、ボールが割れた。その音がスイッチになったかのように男の子が声を上げて泣き出す。
わたしは自分がただの女子中学生であることも、クラブに遅刻しそうなことも、部長がすごく怖いことも、すべて頭からふっとんで、ずかずかと男のもとへ大股で歩き、その肩をがっしと掴んだ。

「ちょっと!そこまですることないでしょ!一国の兵士が朝っぱらから子供イジメなんてみっともない――――」

振り向いたその男の顔をみて、わたしは驚いた。確かに革命派の軍服に、鋭い目つき、だけどどう見てもわたしと同い年くらいの男の子だった。

「何だお前は?俺の邪魔をするな」

激しい表情で凄まれてわたしは何も言えなくなったけれど、びえええという男の子の泣き声ではっと我にかえった。

「君たち、大丈夫?どこか怪我はしてない?」

わたしは兵士の男に背を向けてしゃがんで、へたりこんだままの男の子たちに声をかける。怯えて泣いてはいるものの、どうやら怪我はないみたいだ。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、制服の襟をつかまれ無理矢理引っ張り立たされた。

「い、痛い、はなしてよ」
「お前もサッカー信者か」
「し……信者?ち、ちが、ただの通りすがりの中学生で」

ひいおじいちゃんは世界で活躍したすごいサッカー選手だったとか聞いたことがあるようなないような気がするけど、そんなの半世紀以上前の話だ、わたしには関係ない!別にサッカーがすきなわけでもないし、禁止されたってどうもしない、わたしはただ、子供たちが理不尽なことをされていたから腹が立っただけで。

「…………ほう……」

兵士の目が、わたしを見定めるようにぎろりと光る。ありえないくらい心臓がばくばくしていた。わたし、どうなってしまうんだろう?さすがに殺されたりはしないと思うけど、罰金とか、刑罰とか……。14歳って捕まるんだっけ。少年院行き? やだ、わたし今までふつうに、地味にまじめに生きてきたのに。

「お、おねえちゃんをはなせ、わるいへいたいめ!」

ボールを取られた男の子が、兵士の脚にしがみついて、こぶしを振り上げて力の限りパンチを食らわす。 「だ、だめ、そんなことしちゃ、あぶな」 わたしが言い終わらないうちに、どかっとにぶい音がして、男の子がうしろに吹っ飛んだ。兵士の男が蹴り飛ばしたのだ。

「目障りだ、失せろ」

男がそう言った直後、わたしの右手が空をきった。

ぱしん、と頬にクリーンヒットした手のひらがじんじんとしびれる。男の子に平手打ちなんてしたのは14年生きてきてはじめてだ。いやそれどころか人に手をあげたこと自体はじめてだ。でも、だって。こいつ、最悪だ、許せない。

「失せるのは、あんたよ」

わたしの声は情けなくも震えていた、だけど一歩も引けなかった。許せない、ううん、許さない。わたしに頬をぶたれたその男は、しばらく固まったまま動かないでいた。血がのぼってしまったわたしは、けんかなら買ってやんよ!と心のなかで叫んだ。負ける気しかしないけど、それがどうした!わたしは正義の名のもとに散るのだ!本望だ!などと考えていたら、男のうしろでシュンッと音がし、軍服を着た男がもうひとり現れた。

「何してるんだ」
「……何でもない。もう戻る」

――――そして、再びシュンッという音がして、ふたりとも消えてしまった。

「おねえ、ちゃ、だいじょぶ?」

吹っ飛ばされた男の子がよろめきながら起き上がって、わたしにそう聞いてくれた。

「あ、……うん、わたしは……ううん、きみこそ大丈夫!?あんな風に蹴られて……」
「ぼくはぜんぜん……あのへいたいね、ふわって……なんだかかるうく、ぽんっておすみたいにしただけだよ。ぼく、しっかりたっていなかったから、たおれちゃったんだ」

……なに、それ……手加減したってこと?わたしも結局無傷だし、危害を加える気はなかったのかも……?

……だけど。

消える間際、わたしをぎっと睨んでいたあの目には激しい怒りがこもっていたように見えた。今日はなんとかそのまま帰ってくれたけど、これから狙われたりとか……。そうなったら、どうしよう?

「おねえちゃん、たすけてくれてありがとう」
「えっ?あ、そっか、えっと、どういたしまして……?」
「ところで、おねえちゃん、いっつもこのこうえんいそいではしってくおねえちゃんだよね?きょうははしらなくてだいじょぶなの?」
「…………あ」

さっきまでとは真逆で、サーッと血の気が引いていった。




*




「ふー…………」

玄関にどさりとかばんを置き、ローファーのかかとに指をかける。家に帰って、夜勤疲れのお母さんが眠っている時間が、わたしの至福の時。散々な一日だったから、なにか楽しいことでもしよう、そうだWiiでボクシングでもしてすっきりしよう、と意気込んでリビングに足を踏み入れたら、お母さんが起きていて、それでも十分びっくりなんだけれども、お母さんの向かいの椅子に腰をかけ偉そうに脚を組んでいる男の子の顔のほうがよっぽど衝撃的であった。

「あ、ゆい、おかえり」

そういうお母さんの笑顔は若干ひきつっているように見えた。

「おかえりじゃなくて、この人なんで、……なんでうちにいるの……!」

わたしが震える手で指差すと、今朝の兵隊さんはうっすらと笑みを浮かべ、その次の瞬間お母さんがあまりにも恐ろしいことを口にした。

「今日からゆいの監視役として、一緒に暮らすことになったの」

はいわたし死刑宣告されました。


Un jour j'ai rencontré un ogre.






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