体が揺れる。誰かにおぶられている。温かく広い背中から滲み出る優しさを感じる。ばつばつと雨が傘を叩く音、いつもより随分と高い揺れる視界。
あぁ、頬が熱い。
もう1度だけ言っていいかい?



「豪炎寺くんの、ばか。」




loop.0008
無くなる恐怖に視界がぐらぐらします。そんな世界にあなたがいます。




ばしゃばしゃとあまりにも水を跳ねさせて走るもんだから擦れ違ったOLに文句を言われた。そんなもの気にも止めずに走り続ける。早く、早く、早くあの人の所へ。



「いますぐ、行きます。」



そう宣言してからすぐに通話を切り、またかけ直す。相手は決まっていた。いや、決めたんだ。
はちきれそうな罪悪感と心の中でお菓子を買って貰えない子供のような駄々がずっと跳ね回っている。それは飛び跳ね、脳を掴んで揺さぶり、思考の邪魔をしてくる。



『豪炎寺くんのばかぁあ!』



はっきりと思い出すことの出来るこの声を俺は絶対に忘れない。雨音をすり抜けて雷鳴のように集中的に耳に入りこんで来た大きな声に既視感を感じながら、俺はまた吹雪を置き去りにすることに唇を噛む。じくりじくりと沈む痛みに鉄の味が混ざったころ、俺は無性にもっと自分を傷つけたくなった。吹雪が今夜負った傷の何倍物の痛みが欲しい。我が儘で最低な人間だなって罵って、目覚めさせて欲しい。間違い無く後悔している。
けれども決心を変えはしない。
 


回線が繋がって行く音を聞きながらベンチで眠る吹雪を見下ろした。タオルでぐるぐるに包まれた吹雪が少し呻く。途端に広がった温かさは我が子を見るよな愛おしさだった。撫でようと伸ばした手を後数センチの所で止める。俺にその資格は、無い。だからこそ。
吹雪には吹雪にあるべき幸せを与えてくれる人を、彼を。



『もしもし?』
「もしもし、染岡か?」
『豪炎寺、どうした?』
「染岡、頼みがある。」
『…………なんだよ。』
「吹雪を、」
『は?』
「吹雪を幸せにしてやってくれ。」




早く、早く、早くあの人のところへ。行きたい、はずなのに足取りが重い。後悔はしていても判断は間違っていない筈なんだ。俺にあの人が必要かと聞かれたら傾げるであろう首も、あの人の喪失に耐えれるかと聞かれれば確実にもげる。



「今から私が君のお母さん。」



音を拾い理解した瞬間から、脳に刻まれたままのフレーズが今までずっと俺を束縛している。彼女はずっと母親らしくしてくれた。体調を心配し、話をし、笑い、叱って、参観日にまで来てくれた。愛称で呼んで頭を撫でて誉めてくれた。初めてだった、ただ受け取るだけで許される愛をここまで与えてくれた人は。自分の母のことはよく思い出せないから、そんなやっと手に入れた母親の温もりを失ってしまうのが、怖かった。



ただ、これは¨取引¨だ。俺は幼い頃に亡くした母を、彼女は相手をしてくれない夫(と言うより恋心の置き所)と息子を、お互いが演じることによって補い合う。誰かが決めたことじゃなくただ極自然に収まっていた。
ちゃんと、異論は無い。



なら何故、今、頭に浮かぶ名前は吹雪ばかり何だろうか。吹雪にはっきりと告げた言葉がずるずると今も胸を刺しているのだろうか。俺は一戦を越えてしまった。そして2度と戻ることの無いようにその線を自ら消したではないか。境界線を無くし自分のテリトリーをあの人の物と融合させたのだ。もう、遅い。俺はあの人が好きなんだ、と強く叩くように自分に言った。好きでなければならないと。 


吹雪への好きは慈愛であって恋慕ではない。吹雪も夕香も大切な守るべき人。けれど最早吹雪に手は届かない。ずきずきと身体中が痛む。吹雪を迎えに来た染岡に思いっきり殴られ、吹っ飛ばされた身体の至る所が軋む。吹雪の平手とのダブル攻撃に当分はゼリー類しか食べる気がしなかった。これから吹雪を守るのはあの逞しく男らしい染岡だ。これから吹雪に触れるのは俺をぶっ飛ばしたあの腕だ。
俺はもう吹雪に触れてはいけないし、触れることもない。



(これで、満足か?)
「うるさい」
(理屈並べはやめろ、)
「黙れ………!」
(もう、わかってるだろ?)
「………何を、」
(俺はお前、お前は自分を攻めたい時に無意識に俺を呼ぶ。そんな時のお前は後悔してるか、まだ迷ってるか、とにかく地に足はついちゃいない)
「そんなこと、ない」
(お前は俺を呼ぶことで罪悪感を減らしたいんだろ)
「お前に何がわかる…!」
(愚問だな、繰り返す気は無い。そんなことより、本音を聞こうか。)



いやだいやだ、やめてくれ!
自分の中で声がする。いつだって冷静なこいつは時に俺を揶揄い、蔑み、目覚めさせる。この¨俺を否定したがる俺¨は普段上手く潜んでいるきかん坊で時々悪魔ように囁くのだ。ぽつりぽつりと針を投げては俺を刺す、俺自身。自身だからこそ知り尽くす全てを今並べられたら俺に勝ち目は無い。



気づいてはいけない気がしていた。けれど発進してしまったジェットコースターのようにパズルはぱちぱちとはまっていく。気持ちが焦っている、行かなければいけないよりも、収集のつかない思考よりも、明らかな落とし穴の存在。ずっと見ようとしなかった。 


吹雪は男だ。何度も言った。
吹雪は彼でHEで少年で男だ。そんな俺を彼女は首を傾げて笑った。吹雪はこれっぽっちも気にしてはいなかった。染岡はさぞ当たり前のように迎えに来た。俺はずっと言い訳にしていた。こいつは言う。



(その偏見がらしくないと思わなかったのか?)


「……そうだ思わなかった。」


(そう、つまりお前の反差別は安全圏にいるからこそ、か。)


「違う!」


(口では何とでも言えるぜ。でも俺はお前の心だ、本心だ、勝たせやしない。)


「だまれ…!だまれよ!」


(吹雪は何で特別枠だったんだ?吹雪がお前に何をした、何でお前と吹雪は仲良しこよしなんだよ、お前が吹雪に何をした!)


「黙れ!」


(触れない?資格が無い?偉くらしいじゃないか気持ち悪い。また独り善がりのやせ我慢をするのか。)


違う、俺は自分の欲望のままに走っていなければならない。その責任を押し付けてはいけない。これは俺の判断なんだ。


(慈愛?恋慕?まともな恋愛すらしたことないお前にわかるかよ。なぁ、何で吹雪を置き去りにしたんだ。何で、吹雪じゃダメなんだ。)


心底から湧き上がる囁きがどうか掻き消えることを願いながらきゅうと握り締め、視界から出たり入ったりする拳を意識して開いてみる。吹雪に差し出し、吹雪が握った掌だ。
雨に濡れて冷えていた包みやすいあの掌をこれからは染岡が握る。そう思った途端ぎり、と無意識に唇を閉めていた自分がいた。


(母親が居なくても今まで生きてきたじゃないか。)


あぁ、わかっている理解している、判断ミスだ。間違っていた。それでも走ることを止めやしない。止めたらそれこそ裏切りではないか。いやこれも違うな、俺は何も背負ってはいない。俺が行こうと行くまいと、もう吹雪には遠く関係の無いことだ。そうだ、俺は俺を待っているあの人のために走っているんじゃなかったのか。


(お前が本当に欲しかったもんは何なんだ。口に出して言ってみな。)





「吹雪、」 



吹雪。何度も何度も頭の中に浮かぶ名前を荒い息とともに吐き出してみた。すうと抜けた呟きが進む体と反対に流れていく。途端に走れなく、なってしまった。



吹雪。
もう1度呟いて目を閉じる。息を吐き出さずに飲み込んだ。
吹雪、吹雪、吹雪、ごめん。
走ったことで火照った頬を伝うのは、冷え切った雨だけではなかった。息が上手く出来ず切れ切れになる。それを抑えようとすればするほど身体は酸素を求めて跳ね上がった。
あぁ、頬が熱い。



身体の中から何かが削り取られるような、ばくぱくとかぶりつかれてしまうような、そんな無くなる感覚。身体は軽くなるのに気持ちは重くなる一方だ。息を吐く度に俺の中の吹雪が薄れて行く気がした。ふるりと身震いする。何故?さっきからこればかりだな、でも本当に何故、
何故今更、気付かなくちゃならない。
俺は、



吹雪、ごめんな。
吹雪、好きだ。
好きだったんだ。



足はまた動き出す。機械的に地を蹴り進む。ただ、ただ前に進む。吹雪を置いてきた道をただ進む。涙も雨も乾かない内にゴールはもう直ぐだ。




走る、走る、息を吸う。


(好きだ。)


息を止めて、ごくりと飲み込む。


(好きだったんだ。)


地を蹴り、走る。


(好きだっだよ。)


振り返らずに走る。


(吹雪、吹雪、吹雪、)


視界が滲みをぐしっと拭ったら余計に濡れてぐちゃぐちゃになってしまった。


(吹雪、吹雪、士郎)


息を、飲み込む。
喰らい蓄積し自分の一部となるように



(士郎、好きだ。)



滲んだ世界に1つ、答えが見えた。






∴≒#*$∵


豪炎寺!
いつもお前は遅いんだよ!!



20111113(!)とこは