だいじょうぶだよ、そのぐらい、そう言ってわたしは鮮やかな青色のパンプスに足を突っ込んだ。例年にない猛暑の夏に相応しい色の新しい靴だ。その靴も、会う人や行く場所がなければ靴箱の中で埃をかぶって冬を越すだけ。キルアは私を外に出すのを良しと思っていない。多分、それはあの監禁事件のせい。一人で外に出たのはクラピカと会ったのが最後でもう一ヶ月が経とうとしている。そろそろ一人で気ままにショッピングだってしたい。無計画にふらふらと街を歩きたかった。
 ううん。
 本当は傷跡を隠してしまいたいだけ。
 監禁事件も、盗聴器の件も、記憶の片鱗がフラッシュバックするたびにやってくる震えも、本当は何一つ解決していない、終わっていない。それでも時間は構うことなく私を追い越していく。それについていこうと早歩きになれば、嫌な思い出はすべて遠ざかる。私は走り抜けたかった。すべてを遠ざけて、それが点となれば、後は真っ白に塗り隠してしまいたかった。私は、弱い。目を背けたいんだ。
 早く日常に戻りたかった。心配する眼差しを向けられることなく、外に出て、気が向くままに遊び回りたい。だから、今、不機嫌そうなキルアの声を振り切って、新しい服を下ろし、玄関で新しい靴を履いている。天気予報によれば、今日は夜までずっと晴れるそうだ。遅くまで街で遊んでいられる。
 立ち上がろうとすると、キルアがわたしの腕を掴んだ。腕を掴む手の予想以上の力強さに、わたしはびっくりしてしまって、バランスを崩してそのままぺたりと座り込んだ。
 ――ダメだ。
 キルアの声はずっしりとした鉛のような冷たさで、静かにそう言った。

「え?」

 わたしが見上げるキルアの目は、いつもと同じ鮮やかなブルーでわたしを見返す。至って静かに、その唇がわたしに言い聞かせるように繰り返した。

「ダメだ。行くなって」

 すんでのところで出かけた言葉を嚥下した。キルアの瞳に気圧されたからだ。それは、私に靴を脱がせるだけの力があった。元々、慎重な性格とはいえ、キルアがこんなに心配性になるとは思っていなかった。過度なんじゃないかと思ってしまうこともあったけれど、監禁事件によって振り回されたのは私ではなく周囲の人々であって、私が事件前と同じような日常と態度を望み、彼らにもそれを求めるのは虫のいい話だ。
 少しだけぶっきらぼうに、分かった、と言って玄関から引き上げる。キルアは拗ねた子どものような私の声音を聞いてか、おー……、と曖昧な返事を寄こす。
 私もキルアも、あの事件後、少しだけ変わってしまった気がする。でも、きっと時間がそれを解決するのだと、私は思っている。

「そういや、“あいつ”に餌やった?」
「朝ご飯? あげたよ」

 キルアの言うあいつ、とは部屋の隅にある鳥籠の中の赤い鳥のことである。
 一週間前、文字通り、ベランダに落ちてたのである。窓ガラスにぶつかって失神したらしい。餌をやるとひどくお腹が空いているのか、がっつくようにして食べた。何だか心配でしばらく飼うことにしたのだった。私はペットを飼ったことなんてないし、無類の動物好きのゴンはここにいない。あの真っ黒な目が瞬くたび、私はなんとなく近寄りがたく感じてしまい、未だに距離感を測り損ねている。キルアはキルアでこの鳥を気に入っているらしく、鳥籠の外からよくじっと眺めている。
 白い空間にいる赤い鳥は、白い空間にいるが故にとても目立つ。

「そろそろ逃がした方がいいんじゃない? 誰かが飼っている子なら、飼い主のところに自分で戻ってくんじゃないの」
「ちぇっ。つまんねーこと言うなよ。オレはこいつ気に入ってんだけど。つーか、逃げたきゃ自分で逃げるだろ」
「鳥籠の中にいるのにそんなこと出来るわけないでしょ、もう……。それにこの部屋、真っ白でその子目立つから逃げようとしてもすぐキルアに見つかって……」

 ふいに自分の発した言葉が、誰かの言葉と重なっていることに気づいて、声は途絶える。部屋を白くしたのはキルア。白い部屋にいると分かりやすくていいな、と私のことをそう言ったのもキルア。馬鹿な類似点を発見した私はその不穏な響きに苦々しい表情をつくってしまう。私は一体、何を考えて……。
 白い絨毯を見つめる。胸の中を、煙のように掴みにくい黒いわだかまりがうねる。それを自覚するたびに罪悪感が私を責め立てる。

『その燃えた喫茶店の原因も多分電気系列だと思うよ……きっとね』

 ヒソカの言葉は思い返してみるとキルアを示唆していたように思う。だけど、私はそんなの信じていない。ヒソカはいつだって人を誑かして、言動で弄ぶ男だ。ヒソカには何の根拠もないのだ。その場にあった材料で思わせぶりな台詞を作り、私をからかおうとしているだけ。
 だから、自分に腹が立つ。もしかして、なんて少しだけでも疑った自分が許せない。そんな……、そんな話があるはずがない。そのくせ、キルアが、どうして知っているんだろう、ということを話す時、一瞬、あの盗聴器のことを思い出してどきりとすることがある。一緒に住んでいる以上は、お互いのかなりの情報を把握しているし、私が無意識にぺらぺらと話していることだってあるだろうに。猜疑心を吸って、花は胸に深い根を張る。それが咲くはずもないと知っているのに、たまに覗いてしまう。
 キルアが心配性になったように、私は疑り深くなった。私が知っている誰かが、本当に私の知っているその人なのか、分からなくなった。
 だからこそ、本当はあの事件の正体を知らなければならない。そうすれば、私は、解放される。猜疑心という名の花を引っこ抜くことができる。

「何だよ、急に黙って」
「え? ううん、別に……どうするの、その子」
「……鳥籠からは出さねーよ。逃がすつもりもないし」
「そう……、じゃあ、餌やり当番全部キルアでいいよね?」
「そこは手伝えっつーの」

 気が向いたらね、とため息をつく。キルアが鳥籠の隙間から指を伸ばして、赤い鳥の首筋をゆっくりと撫でている。

「逃げないよな?」

 キルアが呟くみたいに言う。まだ一週間しか時間を共にしていない居候に向けるには、あまりにも優しげな声音で、私は思わず顔を上げる。昏い双眸が私に向く、口元には柔らかい微笑みがまだ残っている。甘い毒を想う。ぱちん、と私の中で何かが弾けた。育った花の種が。
 衝動的に口にしていた。

「ねぇ、キルア。私に隠してること、ない?」

 キルアは、すぐにきょとんとした顔になると、次は顔をしかめて「は?」と言った。「言いたいことあるなら言えよ。さっきから黙り込んで気持ち悪い」と、顔をしかめながらぶつくさと私に文句をつける。あまりにもそれがいつものキルアなので、尋ねた自分の方が居心地が悪くなってくる。

「いや、その……食べた、とか」
「はぁ? 何?」
「私の、ほら、アイス。取っといたやつ、食べなかった?」
「あ、わり、食べた」

 ぺろり、とキルアが舌を出す。さいてー、と私は呟いて冷蔵庫に向かう。気づかなかったけど、本当にアイスが数個なくなっていた。私は冷蔵庫の扉に隠れながら、目尻に浮かんだ涙を拭った。安心、したんだと思う。じわあ、と何回も安堵は目尻を濡らした。
 キルアはキルアだ。私は馬鹿だ、キルアを疑うなんて、馬鹿だ。
 私は服の胸元を強く掴んだ。胸に根付いた、猜疑心という名の花を思い切り、むしり取るように。むしり取ってもなお、奥底に残る根をひどく厭わしく思う。


欺瞞と鸚鵡




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -