ドアを開けて、私は誰がそこに立っているのかすぐには分からず、まじまじとその男の顔を見つめた。そして、思い切りドアを閉めた。

「ひどいなァ」

 わざとらしく、甘ったるい語尾の伸ばし方をしたヒソカはがっちりとドアを掴んでいる。ドアの隙間から覗く琥珀色の目が、とても楽しそうに細められる。「帰れ帰れ帰れ帰って下さい」と呪詛のようにぶつぶつと呟きながら思い切りドアを閉めようとするが、手に“凝”をかけてドアをこじ開けようとしているヒソカと、ドアに“周”をして力強くドアを引いている私では、どちらかというとヒソカの方が優勢だった。みしみしと切ない音を立てて軋むドアの不憫さに負けて、私はドアから手を離した。
 「最初からそうすればいいのに」と、さも当たり前のように玄関に侵入してきたヒソカに私はもう為す術がない。奇抜なフェイスペイントと道化師の格好をしていないせいで、誰なのか分からなかった。道化のヒソカと、化粧をとったヒソカの落差には何だかついていけない。招かざる客人はそのまますっとリビングに入っていった。ソファーに腰を下ろしたヒソカがにっこり笑って「ゴンとキルアは?」と聞く。
 「ゴンはここに住んでないし、キルアは出かけてるよ」と言えば、あからさまに残念そうな顔で「なぁんだ、キミだけか」とのたまった。どうやらお茶と茶菓子を待っているらしい雰囲気を感じとり、私はしかたがなく冷蔵庫へと向かう。

「キミは今、何してるんだっけ」
「何って……。何も。仕事、なくなっちゃって」
「なくなった?」
「そう、ついこの間、電気系統の火事で」

 へぇ、と言うヒソカの指が、運んできたティーカップへと向かう。電気系統の火事で……。私はその続きを口にしようとしていることに気づく。誰かに言ってしまいたい。だけど、どんな言葉をこの道化師から返してほしいのかは分からない。それでも、漠然とした不安をとにかく薄めてしまいたかった。なのに、これはただの被害妄想で私は未だに病人なんじゃないかという不安が今度は私の口を重くする。
 締まりの緩くなっている水道から、水滴がシンクに落ちた。ぽた、という音の後にティーカップへと伏せられていたヒソカの瞳がふと私を捕らえる。琥珀色。その色に誘われるみたいに、口を開いていた。
 そう、漠然とした不安。これは夏に感じるノスタルジーのせいではない。もっと、どこか奥底に潜む、得体の知れない何か……胸のざわめき……歪み……闇……。

 ――偶然にしては出来すぎてると思うけど。
 黙って話を聞いていたヒソカは、そうさらりと断言した、まるで他愛もない話に飽きたような軽々しい口ぶりで。そうだよね。やっぱり変だよね。こんなのおかしい。やっぱりおかしいんだ。あの不可解な監禁の後、身近で火事が三件も起きている。ヒソカは私が欲しかった答えを与えた。そう、おかしい。なんか気持ち悪い。私の周りに起こることすべてが何だか不自然で、偶然にしてはあまりにも。
 ヒソカが立ち上がり、物珍しそうに部屋の中を眺め、置物を撫でたり、写真立てを覗き込む。「キミ、誰かに恨まれてるんじゃない? それか、不幸になる念能力をかけられてる、とか、無意識に念能力で発火させちゃってるとか、さぁ」とヒソカがおどけるような口調でいい、微かな笑い声をたてる。皿の上の茶菓子はすでに消えている。猫のようにゆらゆらと歩き回る道化師。

「私の能力は発火に関係ないの知ってるでしょ、テキトーに言わないでよ他人事だからって……」
「ああ、そうだっけ。ボク、あまりキミに興味ないからな……」
「はいはい、そうですね。弱いですしね」
「でもさ、思うんだけど」

 何が、と私はソファーに座ったまま振り返った。ヒソカがなぜか花瓶を弄っててぎょっとしたが、ころりと花瓶から落ちたそれを見て、私は思わずソファーの背もたれから身を乗り出した。何、それ……。物珍しいものを見つけたようにそれを翳して、ヒソカは言う。
 ――盗聴器。
 ぱきっとヒソカの指の間で音を立てて、それは機能を失った。

「あ、そうそう、それで、思うんだけど、その燃えた喫茶店の原因も多分電気系列だと思うよ……きっとね」
「……」
「……助言だけど、家の中、確認した方がいいんじゃない? たまたま見つけてボクもびっくりしたけど。本当にきな臭いことばっかり起きてるみたいだね、キミの周りで」
「……うん」

 まるで体を支える芯が折れちゃったみたい。あまりにも唐突すぎる喜ばしくない発見に、体から力が抜けて声が出ない。ショックでショート寸前の頭の中では、ひたすら、何で、どうして、という答えのない問いかけだけが繰り返されている。もう、何が何だか分からない。
 私、誰かに恨まれてるのかな。
 いつの間にか、夕暮れ。帰ろうとしていたヒソカはその呟きを拾い、「……愛憎は紙一重だって言うしねぇ」と言う。軋んだドアが閉まる物悲しい音だけを残して客人は去った。ぽっかりと穴が空いたように空虚な静かさだけがここにある。
 やけに冴えた頭で、あの盗聴器をどうしようかと考えた。ヒソカに壊されたであろうそれは花瓶に戻してその上からたっぷり水と花を入れた。恐らく本当にトドメを刺せたと思う。掃除のふりをしてあちこち探し回った結果、私の上着のポケットからも一個、小さな盗聴器が出てきた。……あの喫茶店に着ていった上着だ……。それを卵を割るみたいにテーブルに叩きつけた後、ゴミ箱に捨てた。
 キルアはまだ帰ってこない。……はやく、帰ってきて、キルア。

 ついこの間行った喫茶店、お世話になった病院、そして、職場。偶然にしてはあまりにも偶然らしくない火事現場。
 家と上着から見つかった盗聴器。
 誰かが、いる。誰か、誰かが、私のことを見ている。誰かはわからない。わからない。何も知らない。ぼやけて曖昧な記憶だけが頭を過ぎっていく。形にならない空気、掴めない幻、夢のような現実。机の上には空のティーカップと皿。静けさが私を苛ませる……あの鉄の部屋や、鎖の冷たさ、転がった空っぽの皿を少し思い出す……――お前もあの野郎も可哀想なやつだな……あの野郎って誰……。
 その燃えた喫茶店の原因も多分電気系列だと思うよ……電気系列……電気……?
 でんき。キルア?
 私は自分の忌々しい的外れな連想に罪悪感だけを募らせた。さいてい、と自分に向かって吐き捨てるように呟く。部屋が、赤い。もうしばらくしたら、月が昇る。その前にカーテンを閉めなきゃ……。月?
 何か思い出せそうな気がして、白いカーテンを引っ張る手を止める。月がこわいのは……、鉄格子越しにずっと見ていた景色だから……、でも、私はその色をどこか違うところ見ている気が、する。月の色……銀色……気絶する前に。気絶?
 そうだ、私は確か気を失って、その後、あの部屋で目覚めたんだ。あの時、私と一緒にいたのは誰?

 部屋はあたたかいのに鳥肌がたった肌がざらざらしていて気持ち悪い。カーテン越しの赤い光が、白い部屋をぼんやりと照らし上げていて、何だか狂気じみたものを感じる。違う、斜陽が狂気じみているんじゃなくて、この白に染まった部屋が狂気なんだ。ぽつりと私だけがこの場所から浮き出ている気がする。
 白色に落とされたインクみたい……。

 また震えている。体を抱いても震えはおさまらない。
 はやく、キルアに帰ってきてほしい。何もかもが私の敵のような気がしてくる中で、キルアだけが私の味方だ。お願い、はやく帰ってきて……。



道化と空虚



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