――この電話は現在、使われておりません。番号をお確かめの上……

 私は、目を丸くして携帯の画面を見つめた。確かにこの番号で合っているし、今日は休業日でもなければ祝日でもない(そもそも祝日でも通常営業だ)。まさか、クビ? いやいや……。
 私はある財団の契約ハンターだった。財宝の調査に始まり、入手、保護、警備、を行っていた。財団は美術館へ財宝を多く寄贈してきた。規模は小さいと言えども、業界では信頼を得ていたし、私も自分の職場が好きだった。
 私は不思議に思い、タクシーに乗って職場まで向かうことにした。キルアは出かけていた。電話線がいかれたとか、社員旅行だったとか、そんな気楽な理由だけを頭に浮かべていた――

 私はタクシーを降り立ち、目の前の喧騒を信じられない思いで見ている。

「……ちゃん? ナマエちゃんね!?」
「あ……」

 同僚の女の子が目に涙を浮かべながら、私の肩をひしと掴んだ。消防車のサイレン……青い空に場違いな、赤い火……。めらめらと何かが炎に浸食されていく音を聞きながら、私は彼女の体を抱き留めた。そうでなければ、彼女は今にもそこに倒れてしまいそうだった。青ざめた顔が私を見上げる。
 当たりに飛ぶ怒号の中、私たちに脇目もくれず人々が忙しなく行き交う。事務所の入った建物は火にくべられた枝のように、あっけなく轟々と炎に炙られている。熱く煙たい風だけがリアルだ……。
 嘘でしょう?

「電気系列からの、発火だろう、って……。建物の中から発火したの……、私が休憩から戻った時にはもう事務所が真っ赤に燃えてて、書類もパソコンも、ぜんぶ……」
「電気……系列……。怪我人は?」
「わからない……」
「……とにかく、どこか安全なとこで休んで」

 大声で指示を飛ばしている理事長が私を見つけて、走り寄った。彼女は私の腕からふらりと抜け、覚束ない足取りで避難する。理事長のいつもの糊のきいたスーツ姿はどこにもない。私たちは数秒間、言葉なく視線だけを交わした。交わす言葉がなかった。理事長は財団のトップであり、私の契約主である。彼は、汗の滲んだワイシャツを貼り付かせ、どっと疲れの滲んで老けた顔で「こんなことになってすまない」と呟いた。
 電気系列なら、と私は口にしてから黙り込んだ。気が動転した私は、電気系列ならしょうがない、非は誰にもない、と乾いた唇で口走ろうとしていたが、やめた。そんなことを言ってどうする? うちの財団はきちんと建物のメンテナンスもしていたし……、アンラッキーだったって? そんなこと……、そんなこと……。財団の全ては、理事長の全ては今そこで燃えているのに……、何を口にしたって、火は止まらない。
 「解雇になるだろう。今までよく働いてくれた。今はダメだ。あとでまた連絡する」と理事長は言い、もはや泣きそうな顔で頷いて踵を返し、走っていった。

 電気系列……? お願いだから、馬鹿なこと言わないでよ。そんな理由で……。

 私を下ろした後、野次馬に混じり、猛る炎をぽかんと見つめていたタクシードライバーは、私がタクシーに近づくとすぐ様、営業へと戻った。大変だったねぇ、としんみりとした声でいい、私を乗せる。とりあえず離れて下さい、と呟いた。
 少し離れたところで、同僚の彼女が虚ろな目で朽ちていく職場を眺めていた。

 ……震えている……。

 膝の上の手をぎゅうっと握った。膝の震えと共鳴して、さらに震えた。こんなのおかしい。“喫茶店”と“病院”の次はここ……? 悪い冗談だ。まるで見えない魔の手が、私の記憶を辿り、私と触れたすべてを叩き壊していくような幻覚に捕らわれた。ただの偶然と片付けられたらいい。でも、そうできないのだ。監禁事件の後、私に周りに起こるすべての厄災が人為的なものに感じられる。被害妄想だ。分かっている。『本当にそうなの……?』私はまだ病人なんだ。だから、こんなこと考えるんだ。
 全ては一週間前にはじまった。
 キルアと、あのケーキ屋という名の喫茶店に行こうと二人で計画していた日の明朝、その喫茶店は全焼した。私はその日、遅くに起きたからそれを自分の目で見たわけじゃないが、キルアが教えてくれた。夕刊には大きな見出しが出た。
 その三日後、私がお世話になった病院で火災が起こった。幸い、職員による迅速な避難のおかげで怪我人は出なかったが、大騒ぎになった。機器の劣化による漏電の可能性が高いらしい。激しく配線の燃えた後が見つかったそうだ。特に私のいた階は真っ黒になっていて……。多くの患者と医師たちが病院を後にした。
 きっと私のカルテも焼けただろう……。

 ……こわい……。はやく帰らなきゃ……。陽が落ちて、月が昇る前に……。
 ぞっと悪寒がつま先から背中を駆け上がって、まるで誰かの指が背中を撫でたような感覚に恐怖を覚えた。吐き気がする。迫り上がってきた冷たさにお腹が締め付けるように痛んだ。
 キルアは……、平気だよね。マンション、燃えてないよね。……。
 私は震える手で携帯を取り出し電話をかけようとするが、三回も操作を間違え、その間にタクシーはマンションの前へと着いた。おつりはもらわずに、来ないエレベーターを無視して階段を駆け上がる。震える手は何とか四回目で正しく呼び出し音を鳴らした。……キルアは出なかった。
 何かあったら、どうしよう。何か、あったら。漠然とした不安が胸の中で膨らみ、私を押しつぶしそうになる。息がしづらい。目に映る景色がいつもに増して鮮明で、おそろしい。マンションの廊下がいつもの廊下じゃないように思える。静かに並ぶ扉にくらくらする。
 鍵が、ささらない。鍵が……。震える手が鍵穴ではないところに鍵をさしそうになるたびに、ガチャガチャと耳障りな音を響かせる。するっと鍵が入ったと同時にそれを捻り、飛び込むようにしてドアを開ける。

「キル、アっ」

 向こう側からドアを開けようとしてくれていたキルアと鉢合わせた。驚いて私を見つめているキルアに私はどっと安堵して、倒れ込むようにしてしがみついた。全身から力が抜けた瞬間に、目頭からぽろりと丸い水滴が玄関に落ちる。

「おいおい、どーしたんだよ」
「……だって、私と関わった、ひと、みんな……」
「仕事場で何かあった?」
「……火事で、ダメになって……次は親しい人に不幸が、お、きるんじゃないかって」

 キルアの肩が涙で濡れた。慣れた匂いがただ今は心底かけがえのないもののように感じた。

「オレがナマエを守ってやるから。変な心配すんな」

 五年以上も一緒にいて、こんなに近い距離にキルアがいるのは初めてだとぼんやりと思った。今は、離れないでほしいと強く思った。


陽炎と幻影



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