見晴らしのよい丘の上の方のマンション群の一室。 元々、この部屋にはゴンもいて、三人で暮らしていた。だけど、根っからの旅好きなゴンは数ヶ月もしないうちにまた旅に出て行った。だから、今はキルアと二人だ。窓からは、南の方に海が見える。街の方に下りれば嫌という程、耳に流れ込んでくる蝉の鳴き声もここでは聞こえない。下の方から響く車の騒音と、ビルの間を駆け巡っていく夏の風だけ。 手首の痣は消えてきた。二つ目のアイスの包装を破りながら、テレビゲームに興じているキルアの背中を何となく眺めている。青い夏の投げかける光が部屋に乱反射、星屑みたいにキルアの髪がきらきらと揺れる。快活なBGMを聞き流しながら、見覚えのないソファーのクッションに目をやる。古くなってきたから新しいのがほしいとぼやいてはいたけれど、キルアが買ってくるとは思わなかった。白いソファーに白いクッション。 この部屋はお互い好き勝手に使ってたし、家具だってどちらかが新しいのを買えば、どちらかが古いものを処分した。あるいは、一人で勝手に買っては勝手に捨てることも、ある。 「ねぇ、キルア」 「ん?」 「何か最近、白い家具増えた? この部屋」 「あー、オレが買った」 「好きだね、白」 「最近はね。何か、白いものに囲まれてると分かりやすくていいな」 「うん? 何が?」 「ナマエが」 「あははは、意味分かんない」 キルアは振り返って、珍しくひどく穏やかに笑った。 「なぁ、壁紙白くしない?」 やけに執着するな、とわたしは少しだけ不思議に思う。 本当は柄を取り入れてこの真っ白な部屋にパンチをいれたいところだったけれど、正直、部屋のことはどうでもいいので、いいよ、と返す。 キルアがラスボス手前のボスを倒しきったところで、電話が鳴った。私の携帯だ。手にして、私はボタンを押すのを躊躇った。『非通知』の表示が胸をざわめかせる。誰? とキルアに聞かれて、私は首を横に振った。キルアが怪訝な顔をする。そして、私に向かって手を伸ばし、携帯を自分に渡すよう催促しかけたところで電話は留守番電話に切り替わった。部屋に落ちる、電話の主の声。 ――私だ。どうやら忙しいみたいだな。後でまたかける。 クラピカ。 急いで通話ボタンを押し込むのと、ふいとキルアが視線をテレビに戻すのは同時だった。 「クラピカ?」 『ああ。ユウ、繋がってよかった』 「どうしたの?」 『いや、あれからどうしているか気になってたんだ』 「平気だよ。傷も薄くなったし」 『実は近くまで来てるんだが……、その様子じゃ平気そうだし、キルアもいるからしばらくは安心だな』 「うん……あ、待って。今どこ?」 『駅前だ』 「今、行くから待ってて。……キルア、出かけてくる!」 キルアは怠そうにこちらを見上げながら、りょーかい、と欠伸まじりに返事を寄こす。日差し強いから上着持ってけよ、と言われる。確かにこの天気だと、肌が赤く焦げ付きそうな勢いだ。キルアはリビングから出て行くと、私の上着を持ってきてくれた。まだ病人扱いなのか、最近はよく気遣われている。いつもこうだといいんだけどなぁ、と冗談めかしたことは言わずに心の中で呟くだけにする。 白いスポーツサンダルでマンションを出た私は小走りに駅へと向かった。 クラピカのことはすぐに見つけられた。こんな真夏日だというのにきっちりと黒のスーツに身を包んで、その上、汗の気配すら見せないぐらい涼しげに立っているものだから。開口一番、クラピカはげんなりした顔で「暑いな……そこの喫茶店に入ろう」と洩らした。当たり前だと私は苦笑する。 ――それで、私が監禁されていた時のことなんだけど…… クラピカは静かな眼差しを私に向けた。真意を測りかねているという眼だ。私は何となく気まずくなって、誤魔化すようにケーキを一口頬張った。駅前に出来た新しい喫茶店のケーキは評判に違わず、とてもおいしい。束の間、生まれた沈黙に甘んじるようにクラピカも紅茶のカップを持ち上げた。伏せられた金色の睫毛が、どきりとするぐらいに綺麗だ。 「何か知らない? ゴンやキルアに聞いても、教えてくれないから」 「なぜ知りたい?」 「……思い出したことがあるの……。私を監視していた男が『お前もあの野郎も可哀想なやつだな』って言ってたんだ。なんか……、だって、そんな言い方って変じゃない? あの野郎『も』、とか。可哀想だとか」 「それは確かに変だが……。事の真相を知りたいなら、それはキルアたちに任せて、ナマエはもうこれ以上事件に関わらない方がいいと私は思う」 「でも……。なんか……、変な感じがする、私の知らないところで何かが起こって、それがもしかして今も続いているかもしれないなんて、何だかすごく気持ち悪い」 「……そこまで言うなら……。だが、私が仕事の範疇内で調べられることは、その監視していた男のことぐらいだろう。何か分かったら知らせるよ」 「ありがとう」 クラピカは笑った。君の勘は大したものだからな、と言って、昔を思い出したのか、懐かしむ表情をする。私は身体能力が高かったわけでもなく、頭脳が優秀だったわけでもなく、唯一、あのメンバーの中で際立っていたのは山勘の良さだけだった。 しばらく過去の話で盛り上がった後、ふいにクラピカの手が私の手首の消えかかりつつある痣に伸びた。大人びた手はすっぽりと私の手を包んでしまう。 店内に流れるのは、初恋の記憶の歌。 「私は……、君の、何と言えばいいのか、純真なところが素敵だと思うし、惹かれている。昔からそうだった……、だからこそ、君には安全なところにいてほしいんだ。知らなくていいことは、知らなくていい。少し違うか……、知ってほしくないのかもしれないな。こっちの世界にいるべきじゃない。踏み込むべきでもない。そういう意味ではキルアのところにいるのが一番安全なのだろう」 一瞬だけクラピカが悲しそうな顔をした。私には、そう見えた。あんなに似合っていた黒いスーツが、まるで鎧のようにクラピカにのし掛かっているように感じた。 クラピカの手は余韻だけを残して、すぐに離れた。 「今となっては私も、キルアがいた世界の住人だが、君を守るのはキルアの役目だ。……すまない、仕事でもう行かなければ。本当は送ろうと思っていたんだが……、タクシーを呼ぼうか?」 「……ううん、大丈夫だよ」 そうか、とクラピカは微笑んだ。やはり黒いスーツはとても似合っている。昔、着ていた民族衣装のことはあまり思い出せない。仲間の眼は集まったのだろうか……、あかい、眼……。 さっきクラピカが残した悲しげな体温がまだ右手に残っている。まだクラピカはここにいると言うのに。ふと、思い出す。クラピカが私に語ったように、幼かった私がクラピカに同じような気持ちを抱いていたこと。年上で、いつも優しく、聡明で、礼儀正しく、芯の強いクラピカはいつだって眩しかった。 連絡先が消えていたことを言うと、「あの時ちゃんと登録はできていたのだから、携帯が壊れているのかもしれない」と携帯ショップに寄ることをアドバイスされた。心配性だけは変わっていない。 夕暮れが街をあかい色に沈め、感傷に浸りつつ坂道を上って家路についた。クラピカとはまったく違う世界で生きているということに、言い様のない寂しさのようなものを感じる。携帯ショップに寄るのはすっかり忘れていた。 「ただいまー」 「おかえり」 「ご飯つくる? 外で食べる?」 「ピザ取ろうぜ。駅前のケーキ屋どうだった?」 「おいしかったよ。今度いこーよ、キルア好きだと思う」 上着を脱いで椅子の上に放った。 あの店のケーキはチョコやクリームがふんだんに使われていてとても甘く、キルアの好む味だ。本当はコーヒーの方が有名なんだけれど。喫茶店だし。あれ? キルア、ケーキ屋って言った? 「そういや、何で知ってるの? 私、どこに寄ってるか連絡したっけ」 「クラピカからメール来たんだよ、今、ナマエとケーキ屋だって」 「あ、そっか。連絡先、交換してたんだ」 クラピカも案外、大雑把だなぁと笑った。ケーキ屋じゃなくて喫茶店だと訂正したいような気もするけれど、まぁ、あんな見るからに甘ったるそうなケーキが出てきたらケーキ屋だとも思い込みそうだ。実際、クラピカはケーキを見て、外で「暑い」と言っていた時と同じ様な顔をしていたし。 蝸牛と真夏 |