夢を見た。
 何かから逃げ出した私は屋上のフェンスを飛び越え、街の頭上へ。羽でも生えているかのように軽やかにつま先は宙を蹴って、ぎらぎらと輝く鈍色の建物を眼下に空を駆けていく。裸足の足が踏む宙は確かな感触を返す、まるで透明な氷を踏んでいるように。はたと私は足を止めた。車の音もなく、群衆のざわめきもなく、ただただカーンと甲高い工事の騒音だけを返す生気のない街を見下ろす。
 がくん、と視界が急回転した。私は宙を踏み抜いて落ちたのだ。くるくると風に流されるまま旋回し、舞い上がり、重力に引き摺り下ろされる。瓶の中に詰められて思い切りシェイクされたみたい。視界が青く開けるたびに太陽が目を灼く。風にいいように蹂躙されるレジ袋のような哀れな姿に違いない。私はそのままどこかへと叩きつけられた。どしゃ。そんな音がしたように、思う。いいえ、私はレジ袋ではなく、一羽の鳥であった。
 白い床に血痕のように鮮やかに横たわる赤い鳥だ。ここはどこだろう。動けない。動かせない。夢という空間が私の抵抗を全て奪い去って、私をここに縫い付ける。からから、と頭上から音がした。ベランダが開く音だ。手が伸びてくる。見上げている景色を覆い尽くすような大きな手だ。こわい。こわい。でも、私は動けない。喉を動かすことすらできない。その手は私を掴み上げて――

 夢を見ていた。

「おはよ」

 私は瞬いた。声は耳元でそうっと囁かれた。対の蒼い目が私をじっと見つめていた。それが観察者のごとくあまりにも機械的な目の向け方だと気づいて、私は覚醒すると思わず身を引いた。硬い布の感触が摩擦となって私の体を引き止める。私はソファーに横たわっているみたいだ。朦朧とする。ソファー……。視界に霞がかかっていて、身を起こすだけで頭が痛い。頭の中で長い間せき止められていた何かが一気に流れ出したみたいな、加速に伴う痛さだ。キルアは床に座ってソファーに寄りかかりながら、寝ている私を見ていた様子だ。組んだ腕に埋めていた顔を私に向けると、よく眠れた? と聞いた。
 眠れたどころか、眠りすぎた。そう言おうとして喉があまりにも乾いていて声が掠れた。一体、どのくらい私は……。長い時間の経過が私にじっとりと絡みついていた。目を開いても、焦点が合わない。私は目頭を押さえた。甘い匂いがする。ケーキ? ああ、そうだ、眠り込む前に食べてた……。それにしても腐りかけみたいに、甘い匂いだ。何日も経ったみたいな、饐えた匂いだ。私はキルアの買ってきたそれを食べているうちになんだか急に眠くなってしまって。……そうだ、そうだった。

「なんか、喉乾いた」
「何飲む?」
「いや、自分で……、大丈夫」

 ふらっと立ち上がってよろけた私の腕をキルアが掴む。私は緩慢な動きで食べかけのケーキが乗った皿を持ち上げるとキッチンへと向かった。部屋は薄暗かった。レースのカーテンを抜けた斜陽が、床に鮮やかな赤い花の模様を落としている。そういやなんか夢を見ていなかったっけ? やけに見覚えのある夢のような、見知ったものが出てきたような、気がする……。眠りの名残のせいか部屋の空気は重苦しい。皿を洗う水の冷たさと、流れる音が心地よかった。違和感。調味料の配置が違う。寝ている間にキルアが料理でもしたのかな。私は皿の水気を切ってカゴに入れ、手の湿り気をタオルで拭う。リビングに戻る途中で、また、違和感。それは例えば、ふと目に付いた人の手に六本の指がついていた、とか、真っ白なカラスを見てしまった、とか、そんな奇妙であまりにも明らかな違和感だ。
 廊下の向こう、の、玄関。ドア。ドアに、鍵が付いている。鍵穴は、外から使うものだ。決して、内側にあるものではない。家の中に、あるもの、じゃない。違う。なにこれ。

「っあ」

 後ろから押さえつけるように私の両の腕が掴まれる。ぎょっとした私の足が、背後にあった足を踏む。耳元に寄せられた唇が優しく私に尋ねた。「どーした?」甘い匂いがする。いつもの洗髪剤の匂いであり、洗いたてのタオルの匂いでもあり、私の生活の。嗅ぎ慣れたそれ。今は、その言葉とともに香水みたいに嘘くさいとってつけたもののように感じてしまう。
 違う、嘘なんてない。ここに嘘なんてものはない。きっと、きっと……私が忘れているだけ。

「……いつからあったんだっけ、あれ」
「ん、ずっとあっただろ」
「そう、だっけ?」
「どこかの病人が逃げ出さないように」
「あはは、そうだったね……。私は、ビョーニンだから……」

 そうなの。そう、私は病人だから。私がおかしいだけ。私の記憶は不確かだ。連続性なんてもう消えている。そう、そうだ。そうだ! 私は、最近ずっとずっと寝てばっかりで。すぐに寝ちゃうから、どこにも行けなくて。ただこの部屋で大人しく、息をして、療養しているだけで。いつも、……何かを食べては眠くなって……。あれ? なんでいつもこんなに眠くなってしまうんだろう?

「キルア、私が食べるものに何か入れてるの……」

 キルアは私の髪の下に指を潜らせると、頬を掬い上げて私を見下ろした。形の綺麗な睫毛が、その飴玉のような瞳に陰を落とす。キルアは笑っている。

「ほーら、また始まった。そうやって人を疑うの、病気だからだって俺何回言ったっけ」
「ごめん……」
「眠くなっちゃうのは食後の薬のせいだってことも何回も説明してるだろ?」
「そう、だね。ごめん、キルア」
「俺は嘘なんてつかねーよ。ナマエの頭の中にあるものが嘘だ。何が正しいかは俺が教えるし、もう外になんか出なくていい。……今まで楽しくやってきただろ。面倒見てやるからこれからも楽しくここで過ごそーぜ」
「うん。ありが」

 唐突に嘔吐感がせり上がってきて私はキルアの手を振りほどいて洗面所に駆け込んだ。
 気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。きもちわるい。吐き気の原因も分からず、私は洗面台に爪を立てる。

 うえ、

 吐こうとしたけど、私の胃袋は何も寄越さなかった。キルアの冷たい手が私の背中を撫でる。私はもう一度強く吐き気を感じて口を開いたけれど、胃液のような唾液のようなものが伝っただけで苦しさを吐き出すこともできず涙目で洗面台に縋り付いた。キルアはすごくすごく優しい顔をして目を細めた。私はもう一度、げえ、と洗面台に伏したけれど、何一つ吐き出せなかった。
 吐き気がおさまったから、ご飯を食べて、ゲームをして、そのうちに微睡んで私は寝てしまった。
 そして、深い眠りから覚めて、ご飯を食べて、ゲームをして、そのうちに微睡んで私は寝てしまった。
  そして、深い眠りから覚めて、ご飯を食べて、ゲームをして、そのうちに微睡んで私は寝てしまった。
   そして、深い眠りから覚めて、ご飯を食べて、ゲームをして、そのうちに微睡んで私は寝てしまった。そして、深い眠りから覚めて、ご飯を食べて、ゲームをして、そのうちに微睡んで私は寝てしまった。 そして、深い眠りから覚めて、ご飯を食べて、ゲームをして、そのうちに微睡んで私は寝てしまった。


 そして、深い眠りから覚めて、ご飯を食べて、ゲームをして、そのうちに微睡んで私は寝てしまった。


  そして、深い眠りから覚めて、(でも、まだ夢の中にいるような気がして)ご飯を食べて、(本当に私は目が覚めているのだろうか)ゲームをして、そのうちに微睡んで私は寝てしまった。

  そして、深い
 
 眠りから覚めて、


 今度こそ確かな目覚めだった。深い眠りから覚めた私は、この覚醒がすぐに次の眠りへと繋がるいつもの曖昧な目覚めではないことを分かっていた。頭の中はこれ以上ないほどクリアで、手足は軽かった。霧がかかったような感覚もなく、部屋をはっきりと見渡すことができたし、思考も感覚も余すことなく自分のコントロールのうちにある。久々だった。私はずっと浅い眠りのような日々に漂っていた。今、それが、終わる。

「何してるの。ヒソカ」

 正直、どのくらいの時が過ぎ去ったのかよく分からない。割れた窓から吹き入る風はどの季節のものなのか判断がつかないし、いつでも空は青かった。私の目覚めは、念の発動によるものだろう。私の体はまだ錆びていないらしい。空を映して青く輝くガラスの欠片をステージのようにして優美なポーズでそこに立っているピエロが私に向けた殺気、それが私を覚醒へと導いた。身を守ろうとする本能。それが私を揺り起こしたのだ。私は絶え間なく体にオーラを纏わせながら、キルアの気配を探った。いない、みたいだ。

「彼、いないよ」

 ピエロは猫のようにニヤァと笑いながら赤い爪で私を指差した。

「全然起きないんだもの、君。じゃあ殺しちゃおっかなってちょーっと殺気向けてみたら起きちゃって、本当につまんないよねェ」
「ヒソカはそもそも私には興味がないでしょ。キルアはいないってどういうこと。キルアに用事あるんじゃないの」
「キルアがいないからこそここに来たんじゃないか! 君は馬鹿なのかい」
「不法侵入」
「だってインターフォンは壊れてるし、ここ内側から開かないだろ?」

 筋肉はごっそり落ちた。胃に何も入ってない。戦えない。

「ん〜、やる気があるならまぁ君でも相手してあげてもいいんだけどさ、僕にその気はないから安心してよ。殺気を向けたのだって君が起きなかったからだし。僕は仕事でここに来たんだよ」
「仕事?」

 はい、とヒソカは語尾を甘ったるく上げて私に何かを放りつけた。携帯だ。「それ、クラピカから」と今度は素っ気なく言い放つとスタスタとガラスの破片で悲惨なベランダへと歩み去っていった。私の携帯はキルアに取り上げられてしまっていたから、外界と繋がる機器を手にしたのは久しぶりだ。電話帳に登録されているのはたった一件の番号のみ。
 心臓が速まる。私は訳もなく部屋の中央に立つと目を閉じて、コール音を聞きながらその声を待った。いつの間にか部屋は病室のような白色になっていた。何もかもが白。病人の私が着ているワンピースだけが、鮮やかだ。風がその裾を揺らした。私がおかしいのか? この世界がおかしいのか。あなたがおかしいの。私が変なの。誰が間違っているの。何が本当なの。答えが聞きたい。壊れているのは何?

「ナマエか」

 揺るぎない声で、医師のように告げてほしい。この甘い夢のような病は、一体誰が患ったものなのか。

「クラピカ」
「よかった。ヒソカもたまには事実を言うらしいな。君の居場所を知っていると言うから仲介役を頼んだ。そこにキルアはいないな?」
「うん」
「率直に聞こう。何から知りたい?」
「狂っているのは誰?」

 私は確かに赤い鳥を飼っていたし、写真を黒く塗りつぶしたり、記憶を混合したりしていないし、副作用のある薬なんてもう飲んでいない。

「……それは、キルアだ」

 この病室の病人は、私ではない。私は……、本当は、きっとずっと分かっていた。分かっていて、分からずにいたかった。だってそれは狂気と呼ぶにはあまりにも可哀想で、許してしまいたくなるぐらい無垢な衝動が病因なのだから。砂糖菓子のような嘘を噛み砕いて飲み干したって、効果のある薬になるわけない。
 クラピカは続けた。パドキア共和国のある神字彫り師が殺された。表向きの稼業として営んでいた刺青の彫り師として弟子が一人いたが、彼は彫り師の死後、行方を眩ませていた。もちろん容疑者になるわけだ。彼は容易に見つかった、大量の現金と共に。彫り師は死ぬ前に受けた最後の依頼で多額の報酬を得ていた。つまり、弟子はその報酬欲しさに師を殺して逃亡したと考えれば筋が通るのだが、弟子は殺していないと言い張っている。そしてその主張は正しかった。なぜなら、彫り師は”暗殺”されていたから。恐らく苦痛もなく、そして、念能力者であるのに抵抗をする間なく一瞬で殺害されている。一般人である弟子がそんな殺害をできるはずもない。ならば、こうだ。念能力者である彫り師が多額の報酬を受けた直後に何者かに殺害され、たまたま師が死んでたまたまその側に現金があったため弟子がそれを持って逃亡した。

「その彫り師が私を監禁されていた時の鎖に神字を施した人ってこと……」
「証拠はないが、恐らくは。そして、君を監禁していたのは、その”弟子”だ。マークしていたのは彫り師だけだったが、捕まった弟子が疑惑のかかっていないことに関しても喋り出したんだ。人を監禁したことはあるが、殺害したことなんてないと」

 怯えた、疲れ切った顔が脳裏に蘇った。私を監禁しておきながら、私には関わりたくないといった態度だったあの男。私と、誰かのことを、可哀想だと言ったあの嘲りのこもった声。

「……依頼されて、君を監禁していたそうだ。いや、ただ見ているだけだったから内容としては監視といったところだな。依頼人の名前は知らないと言っていた。ただ……銀髪の年若い青年だったと」
「そんなの……」

 キルアだと言っているようなものじゃない。
 私はついに床に膝をついた。吐き気はなかった。頭痛もなかった。どちらかがあればよかったのにと思った、こんなにも頭が冴えている時にそんなこと知りたくなかった。(でも、本当は気づいていたのかもしれない)あまりにも根深い病巣を見て、私は今度こそ全てが嘘だったらいいのにと強く思った。優しい日々が嘘のように(やっぱり全部嘘だったんだ)この手からこぼれ落ちていく。割れたガラスは元には戻らない。こんな救いようもない事実を見るためだけに、この世界に亀裂を入れたの、私は。

「クラピカ。こんなこと、今更言うの、馬鹿みたいだけど。馬鹿、だよ。でも、私それでも、確実な証拠が欲しい」
「信じたくない気持ちは、痛いほど分かるが……。その部屋のどこかに神字はないだろうか。キルアの依頼がその多額の報酬の依頼だったと考えるなら、その部屋に施したと考えるのが妥当だ。暗殺は、口封じということだろう」

 神字。真っ白なこの部屋にそんなものがあれば、一目で分かると思うけれど……。家具にそんなものは見当たらない。そもそも家具に施したところで効果は薄いと思う。もっと広範囲に渡るもののような気がする。壁。指で壁紙をなぞる。いいや、壁は常に白かった。この部屋を買った時から白かった。この下には何も……。
 違う。最初から白かったのだから、壁紙の必要はない。白い漆喰の壁だった。なぜその上から白い壁紙が貼られているの?
 私はオーラを鋭く尖らせて壁に刻みを入れて無理やり壁紙を剥ぎ取った。その下から現れた白い本来の壁には、私が刻んだのではない、模様のような窪みが文字のように並んでいた。

「……あったよ、クラピカ」

 キルアの家族のことは知っている。異常と人は呼ぶだろう、方向性と強さを間違った愛情を垣間見た。あれは言葉を変えれば、呪いの域にたどり着く執着心だ。キルアだけは、違うと思っていた。キルアはあの家の呪縛から逃れたのだと。私たちと同じものを見て、同じように感じて、”普通に”愛憎を感じるのだと。
 何がトリガーだったのかは分からない。でも、結局、ゾルディックの血は確かにキルアの中に流れていて、私はそれを呼び起こしてしまった。気づけば、泣いていた。どうしてかはまだあまり理解できなくて、ただ悲しいと思った。だって、それって絶対に治らない病気だもの、キルア。私だって、認めたくない。でも、もう、私たち一緒にはいられない。
 キルア、ねぇ、箱に動物を飼ってもね、そこに砂糖を詰めて窒息死なんてさせないんだよ。それっておかしいことなの。あの赤い鳥を殺したのは、キルアだね?


愛詩と宿痾


 


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