また、戻ってきてしまった。
 私はドアレバーに手をかけたまま、動けなかった。私がいない間に近くで工事が始まったらしく、カーンカーンと青空に響き渡るような甲高い金属音がずっと鳴っている。その音は責めるみたいに絶え間無く聴覚に侵入し続け、頭の中がそれで満ちていく。うるさい。どうしてもドアレバーを下に引き下げることができず、ただ触れている。体だけが緊張して強張っていく。汗が、こめかみを伝う、嫌な感触。
 戻りたくない、と思った。
 ここにキルアがいる。ここは私が戻るべき場所だ。私を抱擁してくれる場所だ。分かっているのに、私はただここに戻りたくない。頭のずっと深いところで警告音が響いている。けたたましく、鋭い音で。工事の騒音とともに私にがなり立てる。頭の中で響く音があまりに多くて、暑くて、倒れてしまいそう。
 は、と息をつく。揺れた私の額から汗が落ちて、剥き出しのコンクリートの床にシミを残した。
 私は、何を。何を考えている? 何が私をこんなに揺さぶるの? 私は何を忘れた?
 ねぇ。ナマエ、あんたは何がこわいの。
 泣きそうになる。夏の暑さが私を涙ぐませるのではない。何一つとして私の中で統合性を持たない、徐々に矛盾が見え隠れし始めた夢の終わりのような、不確かな感じが、嫌なんだ。嫌だ。ああ、寒い。汗に熱を奪われて、急激に寒さを感じる。寒い。指先が、冷たい。

 ――私が、この部屋を出たのは三週間前のことだ。

 キルアが怪我をして、帰ってきた。
 玄関を開けた私は、自分が混乱していることを自覚できないほどには取り乱していた。キルアは腕を押さえていて、その白い指の間からは信じられないぐらい赤い血が見えていて。手に提げていたポテトチップスの袋がするりと逃げて、丸いのがぶちまけられた。私は、は、とか、え、とか、な、とか、言葉にならない音を口にしながら、ふらふらとキルアに近づいた。キルアは平気そうな顔をしていた。私だってこのぐらいの血は見たことあるし、なんなら自分だって大怪我したことだってあるのに、さああと血の気が引いて座り込みそうになってしまった。
 一番、恐れていたことが起こってしまったから。

「あのさ、なんか巻くもん持ってきて。あと、拭くものも」
「うん……。ねぇ、キルア、それ……。誰に……」
「……知らねぇやつ。もち念能力者。結構なやり手ってとこだなありゃ。しばらく部屋出るんじゃねーぞ。お前、俺より弱いんだからさ」
「それって、そいつって私のことを」
「ナマエ。それ以上に言わなくていいし、考えるな」

 ぜんぶ、壊される。ぜんぶ。壊れる。
 怒りよりも何よりも、焦燥感を混ぜ合わせた強い恐怖が私を支配していた。キルアが怪我したことで、目に見えなかった漠然とした不安感は”キルアに怪我を負わせた人間”という輪郭のはっきりした脅威となって現れた。私はその脅威の前では、怒りを抱くことも、立ち向かう勇気を振り絞ることもできなかった。私の頭があの狭い冷たい鉄格子の中での記憶を思い出せずにいても、私の体は隅々までそれを植え付けられていて、かたかたと小さく震えている。
 キルアは「なんつー顔してんだよ!」とけらけらと笑って私の背中を叩いたけれど、私は上手く笑えなかった。それに気づいたキルアが、気遣ってか柔らかい笑顔を見せて、怪我していない方の腕で私の頭を引き寄せた。妹をあやす兄の手つきで器用に私を撫でる。そっと包帯を巻き終えた腕に触れる。キルアを怪我させたのは私だ。私のせいだ。この傷を作ったのは私だ。私がみんなに迷惑をかけている。ぐ、と顔に力を入れて泣くのを堪えようとしていることにキルアは多分、気づいていた。

 そして、私は、部屋を出ることを決めた。キルアが外出した隙に、キッチンのゴミ箱の横に潰してあったダンボール箱を復元して、私物を詰めた。分厚い写真の束が出てきて、懐かしいな、なんて思った瞬間、私はそれを二度見した。写っている私以外の人の顔が黒く塗り潰されている。輪ゴムを解いて、二枚目、三枚目、とめくっても同じだった。顔のない人たちに交じって、私だけが笑顔で写っていた。私はそれをゴミ箱に投げ入れて、半泣きで、逃げるように部屋を出た。
 私がいると知り合いに迷惑がかかってしまうこと。キルアにこれ以上、迷惑はかけられないこと。何も言わずに決めて出て行くことを許してほしいということ。短い手紙を書いて、テーブルに置いてきた。
 電車に乗って数駅ほど離れた街にすぐに入れる部屋があったので、そこに暮らすことにした。
 携帯電話はあっちの部屋に置いてきたから、誰かが私を呼ぶこともなく、ひっそりと静かな毎日がしばらく続いた。びっくりするぐらい、静かで、穏やかで、私を脅かすものは何もない日々。なあんだ、簡単なことだったんだ。私は思った。キルアのことも、寂しいと思わなかったわけではなかったけれど、私の日常からするりと自然に抜け落ちて、静かに少しずつ忘れて、薄くなっていく。申し訳ないとは思った。それでも、私はやっと手に入れたあたたかな静穏に浸ることで精一杯で、他のことを考える隙間なんて心になかった。
 そして、それも壊れた。
 金槌で後ろから殴りつけられた気分だった。ある日、部屋に戻るとわずかな数の家具はすべて足を折られ、食器だったものの欠片が散らばり、壊せるものはすべて壊れていた。純粋な破壊行動の後に残された残骸がひとつひとつ胸に突き刺さっているような気がした。
 結局、こうなっちゃうんだ。

 ――そして、私は戻ってきた。
 まるで嘲笑われているような気分だった。最初からここにいればよかったのに。キルアの言うとおりにしていればよかったのに。結局、私はどこにも行けない。抜け出せない。どこにいるのか、分からない。夏の暑さに焼かれた湯気立つアスファルトの道路をどこまでも、どこまでも歩いているような感覚。向こうの見えない、ゆるい坂をずっと登り続けている。逃げようと、逃げまいと、私はこの部屋のドアの前に立っている。蜃気楼の檻。
 私は一体何から逃げようとしているの?
 ドアレバーをゆっくりと下げ、ドアを引く。思っていたよりもずっと軽い力でドアは開く。その軽さに、馬鹿げたことを考えて泥沼にはまっているのはお前だけだと言われているような気がする。「……っ」私は肩を跳ね上げる。私がドアを開けるのをずっと待っていたかのようにキルアがすぐそこに立っていた。青い目が何も言わずに私を見ていた。

「あ、キルア、私」
「……あーあ、ひでぇな、お前。何にも言わずさ、出てって」

 キルアは怒ってはいなかった。不機嫌でもなかった。でも、あまりにも静かすぎて、こわかった。

「ご、ごめん……。ごめんね」
「いーよ、別に。戻ってきたし」

 まるで、私が戻ってくると分かっていた、そんな気楽ささえ含んでいるかのような声音。
 私の知らない速さとリズムで世界が回っているような気がした。
 私は、何も信じられない。
 私は。
 私は。私は。本当は。
 
 本当は、キルアが、信じられない。

「キルア、あのね」
「んだよ」
「キルア、最近、変だよね」

 ずっと知らないふりをしていた。気づかないことにしていた。ずっと一緒にいるからこそ気づいた、とても小さな違和感。些細な表情の変化。態度の違い。視線。私の知っているキルアとは何か少し違う。キルアを見ていると、病院で目を覚ました気になっていたけれど、私は精巧に作られた夢の中にいるのではないかと思ってしまう。最近のキルアの優しさ。向けられる笑み。とても、息苦しい。息苦しくて、たまらない。甘ったるくて、気持ちが悪い。
 信じられない。信じたい。一秒でもキルアを疑いたくない。何を疑っているのかなんて分からない。ただ、キルアは私が知るキルアだという保証がほしい。キルアという名前のよすがを失ってしまえば、私の世界は中心を失い、回らないも同じ。崩壊寸前の私のバランスを止める、最後の部品。こぼれ落ちれば、ばらばらになってしまう。私が。

「私に、隠していること、あるよね? ねぇキルア」

 定義して、私が見ているものを。

 キルアは私をじっと見つめると、両手を伸ばして私の顔を包んだ。冷えた指先が耳の横の髪をかきあげる。小さく名前を呼ばれる。

「なぁ、よく聞けよ。言いたくないけど……。ナマエは今、病気なんだよ。人を信じられない」
「……えっ?」
「お前は、病人なんだ」
「え……。確かにまだ記憶は戻ってないし、フラッシュバックで不安になったりもするけど、そんな」
「何にもないのにペットに話しかけたり、写真を全部投げたり、電話線を切ったり、夜中には歩き回って泣いたりしてただろ」
「ペットって。飼ってたじゃない、ベランダに落ちてた鳥」
「ねぇよ。そんなの最初から。オレは話を合わせてたけど」
「え……。そんなはず」

 ない。
 目だけを動かして部屋を覗き込むと、鳥カゴは確かに無かった。
 キルアが飛び込もうとする私の頭を押さえて、無理やり、自分と目を合わせる。お前はビョーキなんだよ、と言い聞かせるように囁き、繰り返す。青い目が優しく私を見ている。

「だって! 写真だって、みんなの顔が塗り潰されていて」
「ゴミ箱に投げられてたやつだろ。ただの普通の写真だって。ナマエにはそう見えちゃうんだろ」
「違う、ちがうちがう。電話線切ったり、夜に歩き回ったり泣いたりしてない!」
「覚えてないだけだってば。医者にも言われたろ、記憶を混合してしまうって」

 何が何だか、分からない。
 狂ってるのは、私なの?
 キルアは私の顔を両手で挟んだまま腕に力を込める。私は壁際に押し込まれて、ずるずるとしゃがみこむ。

「病人なんだから、逃げちゃダメだろ」
「……う、ん」
「オレのことは信じてもいいよ。疑う必要なんてない。でも、他は不確かだ」

 だから、ずっとここにいればいい、オレと。
 私は頷く。

眩暈と反響



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