動悸がする。目眩が、する。
 私の胸の中で心臓が不安に怯え、大きく震えているのが分かる。五感が研ぎ澄まされていく。アスファルトに照らし返された真昼の陽射しが目を貫く。聞こえるか聞こえないかほどの足音が聞こえる――違う、それはきっと幻聴だ。私の被害妄想だ。実際には何も聞こえていないのかもしれない……、でも、『何か』が、私と歩調を共有している。背中越しの存在を、確かに感じている。
 じっとりと服の下で冷たい汗が滲み出すのに、私の口の中はからからになっていく。私はただじっと自分の靴先を見つめ、俯きがちに歩き続けた、大通りの喧騒の方へ。何かはまるでじゃれつく猫のように、しつこく私の五感に纏わり付いて離れない。こわい……、気持ち悪い。真夏だというのにぞっと悪寒が体を這う。首をくすぐる髪の毛の数本すら妙に意識される。
 どっと人のざわめきが感覚に戻った。はっとして顔を上げる。無我夢中で歩き続けている間に、私は裏通りの小道を抜けて大通りに戻ったらしい。私のつま先は今は行き交う人々の群れの中に交じり、ぽつんと立ちすくんでいる。意を決して振り向いた。
 誰もいない。何もいなかった。私が今の今まで歩いてきた裏通りは、人一人おらず、まるで絵画のように静止していた。誰もいないことを証明するように、ただ太陽の光が強くその道を照らしているだけだった。
 私の、勘違いなのだろうか。ずっと拭えない感覚だ。最近、外出するたびに感じている、自分を追う何かの感覚。私は自分が作り出した妄執に囚われている病人なのかもしれない。あるいは、それはただの蜃気楼なのかも。

 私の周りが壊れていくのか、それとも、すでに私の中が壊れているのか、私はもう最近、自信がないんだ。

 ここ、どこ……。

 意識が浮上する。自分を人混みの中に見つける。途端にこわくなってくる。ひとりだ。冷や汗で体温を奪われた肌に感じる衣服の感覚が、徐々にコンクリートの感覚へと移行していく。まただ……。フラッシュバックする……。雪に触れたみたいに指先が冷たい。私はバッグの中から携帯を取りだしてお守りみたいにそれを握りしめた。
 大丈夫……、大丈夫、キルアが、いてくれるから。携帯に登録された十一桁の数字だけでキルアとすぐに繋がる、その事実が私の不安を少し和らげる。通院はしなくても平気だと言われたし、薬の必要もないと言われていた。カウンセリングには一度だけ行ったけれど、不安ならまたどうぞいらしてください、と言われただけで。そう、きっと大丈夫だ。しっかりしないと……。
 私は呼吸を取り戻すと、キルアに電話をかけた。夜にはどうせ会えるのに、何となく声が聞きたくなったから。

「え?」

 すぐ近くから呼び出し音が聞こえて、私は驚いて辺りを見渡した。それはすぐに途切れる。キルア? あまりにも多くの人間が携帯を手にしていて、誰の携帯が鳴ったかは分からなかった。どうやらこの付近は待ち合わせに最適の場所らしく、みんなそれぞれ電話をしていたり、画面に指を滑らせたりしている。立ちつくす人々の中に銀髪の少年は見当たらない。恐らくこの人混みの中の誰かの携帯が鳴ったのだろう。そもそもキルアの携帯の着信音は初期設定から変えていないのだから、街中でそれを耳にすることがあってもおかしくはない。
 電話はすぐ留守番電話へと変わったが、数秒後にキルアからの着信が画面に浮かぶ。

『わりぃ。手を離せなくて一度切った。電話したよな?』

 キルアも街にいるのだろうか。スピーカーを通して街のざわめきが耳に伝う。

「うん。今、街?」
『あー、うん、そうだけど』
「会えない? ご飯食べよう」
『分かった。今、そっち行く』
「じゃあ待ってるから」

 私の方から電話を切って数分後、自分がどこにいるか伝えてないことに気づいて慌ててメールを送ると、『マヌケ』という返信がきた。まったくだ。しっかりしないとなぁ。
 ビルの外に設置されているベンチに座ると、陽射しのせいで温まっていた。暑いな、早く何か飲み物が飲みたい。手持ち無沙汰で、何となく膝に載せた携帯を眺めていた。ふと着信があったのでキルアかと思ったが、表示名はハンター協会で、私は何だろうと思いながら通話ボタンを押す。事務的でありながら快活な第一声は『ハンター教会のビーンズです』だった。

「こんにちは」
『ナマエさんのお電話で間違いないようですね。今、お時間大丈夫ですか?』
「はい、ちょっとなら……」
『実はですね、以前の事件の調査の続きに関してご報告がありまして。普段はご友人のキルアさんにご報告をお伝えしていたのですが、どうやら通話中のようだったのでご本人様にと思いお電話させていただきました』
「え? あの、どうしてキルアの方に電話を? すみません、私自身に少し話が見えていないみたいで」
『ええとですね、あれ、キルアさんの方から聞かれてませんか? ナマエさんはまだ心身共に完全に回復なさったわけじゃないので、何かあったらまず自分の方に連絡してほしいとキルアさんにお願いされていたんです』
「そうだったんですね。すみません、恐らく彼が気を遣ったんだと思います、私は特に何も聞かされていないんです」
『そうでしたか。今、ナマエさんにお伝えしても大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
『詳しいことはすでにキルアさんに報告しているので彼から聞いた方が早いとは思いますが……。かいつまんで言いますと、部屋と鎖に彫られていた神字は、協会員にいる神字の専門家が分析したところ、パドキア共和国にいる彫り師の線が強いです。念能力者なら神字の習得は容易いですし、単純なものならすぐ習得できますが、部屋と鎖に彫られていた神字は一般的な習得の範囲を超えた、より複雑で強力なものだそうです。それこそ、神字そのものを完成された念能力として習得している念能力者ではないと、あのレベルの神字は書けないだろうと。世界にはそのような念能力者がいますが、それぞれ神字に癖があるようです。人の手書きの文字に癖があるのと同様ですね。その癖から見るに、パドキア共和国にいる彫り師――彼は刺青の方の彫り師ではありますが、裏稼業として神字で商売しているみたいですね、ええ、彼の可能性が強いと。彼は協会員ではないので、ハンター協会としてはこれ以上のことを調べるのは難しいです。裏ルートに通じている方が身近にいらっしゃるなら、そのような方に頼った方がいいかもしれません』

 神字……。あの鎖に彫られていたのは、神字。だから、私は念能力を使えず、脱出することが出来なかったんだ。……なら、知っているんだ。私が、念能力者であることを知っている、人間だ……。だから、神字を使ったんだ。

『神字は鎖ではなく、部屋にも描いてありましたが……。どうやら建物そのものにも施していたようです、人の侵入を防ぐような神字を。裏ルートでの取引価格は条件によって上げ下げされますが、恐らくあのレベルだと一千万は下らないと……。』
「一千万? えっ、ジェニーでですか」
『はい、一千万ジェニーです』

 電話が切れた後、私は呆然としていた。私をあの場所に監禁するために一千万ジェニーをかけた? 何のために。そうまでして、何をしたかったの。安い金額じゃない。ハンターとなって確かに私の周りで動く金の桁は変わったが、それでもそれは安い金額と言えない。
 一体、どうして……。

「ナマエ」

 あ、と声が出た。頭を占めていた疑問がすっと遠退く。キルアは暑い暑いと言いながら私の傍らに立つ。初めて会った時には同じだった背丈も、今では随分と違うな、と思う。夏の空の下で、キルアの髪や、眩しそうに細められた瞳は、飴のようにきらきらとしていて、綺麗で、甘い。「やぁい、待ち合わせ場所も伝えないマヌケ」とからかう声に、「ごめんってば」と返す時の、一瞬の溶けるような想い。これだけで、いい……キルアが一緒にいてくれてそうして私はきっと何もなかったころに戻れるだろう(神字……)、早く忘れろ、忘れなきゃ、いつまでも引きずってたら私は本当にどうにかなってしまう(一千万ジェニー、彫り師、月と空の皿……)、ビーンズさんの話も聞かなきゃよかったのかもしれない……(あの男の顔、あいつも可哀想だなというあの言葉……)、やめろ、考えるな。
 何だよぼーっとして、とキルアが私をのぞき込む。ううん、と私は首を揺すって曖昧な笑みで誤魔化した。キルアに、ビーンズさんからの話を聞かせる気はなかった。私たちは都合のいいレストランを探すためぶらぶらと歩き出す。

「そういや、結局、この通りの裏手にあるケーキ屋には行かなかったんだな」
「え? あ、うん。何か途中で具合悪くなって引き返したの……、どうして分かったの」
「……いや、だって、ケーキ屋行って、同居人に何も買わずに帰ってくるやつがいるかよ。サイテーだろ」

 その傍若無人っぷりがサイテーと笑い、隣の肩をこづく。下ろした手がたまたまキルアの手とぶつかり合った。何となく行き場を無くした私の手を、そっとキルアの手が掴んだ。私の答えを確かめるようにぎこちなく指に触れていた手を私が少しだけ握り返すと、まるで長い間連れ添った恋人のような自然さでキルアの五本の指が私の指を絡めとる。
 自分の頬は赤く染まっていることだろう。自分の中で満ちた感情のせいで、何も考えられない。今、私を満たすこの気持ちがずっと続けばいい。溶けた飴のような感情に浮かぶのしあわせに他ならない四文字。

「……でも、こんな天気ならケーキ買ってもすぐダメにしちゃう。買うなら、ゼリーとか、ベイクドチーズケーキか焼き菓子かな」
「あー、オレ、レモンつかったもん食いたい。レモンパイとか、あ、冷えたレモンタルトとか」
「レモンタルトいいね」

 レモンタルトの話で途切れた会話と、手を繋いで歩く夏の坂道。
 ふと、キルアがぼそりと呟いた。

「……気をつけないとな」

 自分に対して言ったのだろうその言葉に、何を気をつけるの、という言葉を飲み込んだ。私に聞こえたと思っていないだろうから。翳っていて、キルアがどんな顔をしているかは分からなかった。

 (パドキア共和国……キルアの、故郷)
 馬鹿だな、私は、また馬鹿げた共通点だけ見つけて、自己嫌悪……。
 クラピカからの連絡は、ない。そう、もう全部忘れてしまった方がいいんだ……。

 そして、例えばレモンタルトのことだけを考えてればいい。


鉄屑と檸檬




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