彼方 | ナノ
 
「あーっ!隊長殿、今、隊長殿の顔に蚊がとまっていたでござるよ!」
「な、なるほどー、それを翠くんがやっつけてくれたんスね!」

わざとらしさが否めない仙石くんと鉄虎くんの機転により、張り詰めていた場の空気が僅かながら和らぐ。まさか嘘だと気付いていないわけでもないだろうに、守沢先輩は「そうだったのか、ありがとう!」などと暢気にお礼を言っていた。
とはいえイベント前にアイドルが顔を腫らすのはさすがにまずいと、プロデューサーさんが隊長を連れてレッスン室を出て行く。また保健室だろうか。ともかくその日の練習は、済し崩し的にお開きになったのだった。



(自分勝手だよなあ)

あんなことがあった翌日だというのに、気まずさより罪悪感が先立って、いつも通り部活へ来てしまう。後から冷静になって考えてみれば、守沢先輩には俺に殴られる筋合いなんてちっともないのだ。俺が窓野先輩を好きなのも、窓野先輩が守沢先輩を好きなのも、もちろん守沢先輩が窓野先輩を好きなのだって、別に彼のせいではない。
ほとんど事故みたいにアイドル科へ入学した俺と違って、隊長には明確な夢やなりたいビジョンがある。ただそのビジョンの中に『女の子を好きになる自分』というのが存在しないから、それを事実として受け止めることが出来ないんだろう。自分を見ていてほしい『たった一人』を意識してしまったら、それはもうアイドルではない。世の中にはその辺りを分別して考えられる芸能人も大勢いるのかもしれないが、あの人にそんな器用な真似が出来るとは思えなかった。
何を諦めて、何を選ぶのか。それは守沢先輩が決めることで、俺が口出しするのはお門違い――ましてや手を出すなんてもってのほかだ。
分かっていたのに、一瞬、どうしようもなく凶暴な衝動に駆られた。

「高峯!」

普段大きいばかりで何の役にも立たない右手に、隊長を殴ってしまったときの鈍い感触がまだ残っている。何度も結んだり、開いたり。そうしていればいつかは消えてくれるかもしれないと、気休めのように繰り返した。
ただ忘れていたことがひとつ。

「おい、高峯!」

ここはバスケ部が使っている体育館で、今は練習試合の真っ最中だ。
困惑のあまり叫んだ衣更先輩のパスを思い切り受け損なった、どころかこのままだと落下地点に向けて勢いよく突っ込みかねない自分に気付く。慌てて身構えた時にはもう遅い。

(……あー、かっこ悪)

ころころとボールが床に転がる。呆然と天井を仰ぎ見ながら、俺は『因果応報』という言葉について考えていた。



☆ミ



鼻血と軽い脳震盪。あとは、咄嗟に顔を庇った時の右の突き指。
頭を打った直後であまり急に動かない方がいいから、とわざわざ体育倉庫にしまってあるベンチの上に座らされ、黙々と手当を受けている。当然、部員の怪我の処置をするのはマネージャーの仕事だ。

「いきなり倒れるからびっくりした」
「すみません」
「別に謝らなくてもいいけどさ。でも、これからは気をつけてね」

言い訳のしようもなかった。今日一日傍目から見ても様子のおかしかった俺に気遣ってか、窓野先輩の態度はいっそ不自然なほどいつもと変わりがない。情けない話ではあるが、正直救われた気持ちだ。滑らかな口調、柔らかな空気に、一方的に凝り固まっていた心が少しずつほぐれていく。

「八百屋の息子だからって野菜ばっかり食べてちゃいかんよ」
「そういうわけでもないんすけどね」

ひとつひとつ確かめるような手付きで、窓野先輩がテーピングを巻いていく。その体勢が、図らずもうなじがちょうどよく見える角度だということに気付いてどきりとした。

「……何か、俺今超ダサくないですか」
「鼻にティッシュを詰めてるその状態がって言うなら否定はしない」
「茶化さないでくださいよ」

空いた方の手で無防備な後頭部をそっと撫でる。少し癖のあるこの細い髪に触ったのはこれが初めてで、軽く梳いた拍子に香る甘い匂いが心地良い。
ふふ、とくすぐったそうに窓野先輩が笑った。嫌がられているわけではないみたいだ。

「どしたの、急に」
「んん……テーピングのお礼?」
「それ小さい子にやる奴でしょ」

調子に乗って指を滑らせ、毛先を遊ばせたり耳朶を摘んだり。だんだんと左手が無遠慮になるにつれ、先輩は「こら」とか「ちょっと」とか言葉の端々に小さな不満を滲ませる。ここまで大人しく触られている理由は、怪我人に対する遠慮が殆どなんだろう。だけどそれだけじゃない、と頭をよぎるのは、単に俺がそう思っていたいだけなのか。

「はい、出来た」

念を押すようにきゅっと力を込めた後、顔を上げた彼女と視線が重なった。



「すきです」



言った、というよりは、こぼれた、と表現する方が正しい。
ついさっきまでは確かに思っていたのだ。このままでもいいのかもしれない、なんて。窓野先輩が笑う。そばにいて、こうやって触れられる。それで充分じゃないか。下手に近付いて距離を置かれるよりも、この方がずっといい。
そう、思っていたのに。

「あなたのことが、好きです」

二度目の告白は少し膝が震えた。なんとなく、生きてるってこういうことなんだろうなという感じがした。
僅かに眉を下げた先輩の困ったような顔。多分、彼女は俺への答えをもうずっと用意していたのだと思う。

「……高峯くんが私を好きなのと同じように、私は千秋くんが好きだよ」

本当ならきっと、こんなふうに口にするための言葉ではなかったのだ。窓野先輩が、守沢先輩を思って大切に取っておいた気持ち。それを一番に受け取るべきだったのは、彼であって俺じゃない。

「それでもいいです」

だからこそ、俺は。

「こっちを向いてくれなくても、いいから……ほんの少しだけ、『特別』にしてください。先輩のことが好きで、好きで、どうしようもない馬鹿野郎として、おれをそばにいさせてください」

あなたにとって、一番都合の良い男になりたい。 
 
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -