彼方 | ナノ
 
「おう、高峯!風邪はもう良いのか!」

自身も少し前まで体調を崩していたとは思えないほど快活なその笑い顔を見た瞬間、もう少しサボっておけばよかった、とあからさまな溜息がこぼれた。
ユニット練習に参加するのは丸二日ぶりだ。普段病気なんて滅多にしないのに珍しく高熱で寝込んでしまったのは、これまで何かにつけて仮病を使ってきたバチが当たったのかもしれない。同じ学年の鉄虎くんと仙石くんからは朝のうちに似たような気遣いの言葉を貰っているが、隊長に言われるとこうも一気に色々ぶり返しそうな気がしてくるのは何故なのか。ちなみに深海先輩は今日も来ていない。

「高峯くん」

びくり、と肩が跳ねる。
しかし流星隊のレッスン室に普通科の彼女がいるはずはなく、今俺の名前を呼んだのは当然ながらプロデューサーの先輩だ。だって窓野先輩の声はこんなに可憐じゃない。もっと張りがあって、だけど暖かくて、鳩尾の辺りにずしんとくる。たかみねくん。そう、こんな感じ。
上書きされないよう頭の中で甘やかな響きを反芻した。膨れ上がる自意識に、また少し死にたくなった。

「休んでる間に追加されたフォーメーションの変更点、まとめておいたから」
「ありがとうございます」
「振り付けも少し変えたんだけど、今日レッスン終わってから時間あるかな?」

受け取ったレジュメは可愛らしいイラストも交えながら事細かにメモ書きがされていて、作った人の真心が伝わってくる力作だ。頭を下げて素直に受け取り、なくさないようすぐに鞄へしまった。女の子らしい、丸っこい文字。勉強会の時に見せてもらった先輩の字はそれよりもずっと硬質的で、整頓されていて、読み易かったのに。
あの人が特別な女の子、ってわけじゃない。俺が彼女のことを好きだから、全部が『特別』いいものみたいに思えるだけ。窓野先輩を悲劇に出てくるお姫様たらしめているのは他でもないこの俺だった。好きな人が自分のことを好きじゃないなんて、ごくありきたりな話だ。――現に、ここにも一つ転がっている。

「すいません、今日は店番があって。振り付けは後で鉄虎くんに教えてもらうんで大丈夫です」

悲劇をハッピーエンドへ変える硝子の靴を、俺は持ち合わせていない。プロデューサーさんが良い人だってこともちゃんと知っている。それでも、どんな顔をして向き合えばいいか分からないのだ。いつだって自分のことで手一杯な俺のなけなしの優しさは、悲しさは、全部あの人のためのものだから。

「そっか、分かった」

気付いているのかいないのか、それだけ言って彼女は頷いた。少し申し訳なかった。

「ところで転校生!以前から言っている舞台装置の件なんだが…」
「ああそれなら、演劇部から借りられるよう日々樹先輩に頼んでおきましたよ」
「本当か!?」

守沢先輩が感激に任せ、いつものようにプロデューサーさんを抱き締めるどさくさに紛れてその場を離れる。レッスン室の隅には呆れ顔で様子を眺める鉄虎くんと仙石くん。やんわりと手を上げながら、俺も二人に合流した。やってらんないね。



☆ミ



守沢先輩の熱気は病み上がりにも容赦がない。レッスンの始めこそ色々と思い返して居心地悪い気分を燻らせていたものの、来週末ヒーローショーでやる演目を通しで確認し終わる頃にはすっかり疲れ果て、そんな余裕さえなくなっていた。
どさりと音を立て、大の字の体勢で仰向けに倒れる。呼吸を整えながら瞼を閉じると、上から仙石くんの投げてくれたタオルが降ってくる感触。
バスケ部の試合のあとも、寝転がった部長に窓野先輩がこうしてタオルを渡す場面をよく目にしていた。守沢先輩は弾かれたように起き上がり、体育館中に聞こえるんじゃないかってくらいの大声で「いつもありがとう、有希!」と叫ぶ。すると決まって、窓野先輩は恥ずかしさと嬉しさが半々みたいな顔をして笑うのだ。

「……そういえば隊長、窓野先輩にはいきなり抱き着いたりしないんすね」

気付いた時にはもう口に出していた。俺の知っている守沢先輩なら、己を気遣ってくれたマネージャーに対し起き上がってそのまま熱烈な抱擁、くらいしていてもおかしくない気がするけど。今思い返せば不思議なほど、俺は先輩が彼女に触れたところを見た覚えがない。

「ああ、そうだな」

聞かせるほど大きな声で呟いたわけでもないのに、隣から律儀に答えが返ってくる。それがどこか躊躇っているような、押し殺しているような揺らぎを孕んでいて、思わず視線を向けてしまった。そしてすぐに後悔する。

「一度、有希のことを抱き締めたときにな、こう、心臓のところがぐっと」

苦しくなってしまってな、と話した守沢先輩の表情に見覚えがあった。
気付かなければよかったのに。

「それ以来、あいつに触るのはどうも苦手なのだ!」

これは、彼女のことを考えている時の俺と同じ顔だ。

「苦手なのだ、じゃねえよ」
「へっ?」

ばきっと大きな音がした。



いつの間にか硬く握り締められた拳が真っ赤に腫れている。ひりひりと感じる痛みに、やがてゆっくりと自覚した。
――守沢先輩を殴った。
不意打ちに顔を腫らした先輩は俺に練習着の胸ぐらを掴まれた状態で、ぽかんと口を開けている。足の先からさあっと血の気が引いていくのが分かるのに、頭の中はまだ赤い色がちかちかしたままだ。
俺が欲しいものを全部持ってるはずの人が、それから逃げ出そうとしていた。ヒーローは決して背中を見せないんじゃなかったのか。自分の心に蓋をして、あんたの世界はそれで平和かもしれないけど、窓野先輩の気持ちはどうなるんだ。俺は

「……ふざけんな」

絞り出した怒声は自分自身に向けたものだった。 
 
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