彼方 | ナノ
 
不純な動機をきっかけに始まった勉強会の甲斐もあり、俺は四月の実力テストから順位を10ほど上げた。ということはつまり、今日からまた憂鬱な部活とアイドル活動の日々が始まるということでもある。

あの雨の日、窓野先輩は俺の腕の中で少しだけ泣いた後、何食わぬ顔でまた歩き出した。何も言わなかったし、聞こうとも思わなかった。ただお互いに押し黙ったまま先輩を家まで送り届けて、小さな花柄の傘の代わりに使い古しのビニール傘を借りただけ。それも、「返さなくていいよ」と念を押されて。以来顔を合わせるのは今日が初めてだ。
やけに重たく感じられる鉄製の扉を開いた瞬間、ざわめき立つ体育館に僅かな違和感を覚えた。

「おう、高峯」

不思議なほど静かだ。だからこそ、ありとあらゆる音が曖昧に聞こえる。それが妙に、耳に障る。
俺の姿を認めてほんの少し眉を上げた衣更先輩は、それだけ言うとまた隣の窓野先輩へ向き直った。余裕がないその表情から察するに、何か問題が起こったことは明白だ。

「何かあったんですか」

そう尋ねると、二人は揃って困ったように溜め息を吐いた。

「部長、また倒れたんだと」
「……まじすか」

予想外すぎて、一瞬反応が遅れる。
あの元気のかたまりみたいな人が。今回はヒーローショウの時のような明らかなオーバーワークっぷりを目の前で見ていたわけでもない分、余計に信じがたい心地だった。

「あの人、数学の成績かなりやばいみたいでさー」
「椚先生に赤点取ったら補習、再テストで合格点取るまで部活もユニット練習も禁止とか言われて、必死だったらしいぞ」
「知恵熱かよ……」

横からいきなり現れた明星先輩と衣更先輩に次いで事情を説明され、ようやく納得がいった。体育館が静かなはずだ。

「しかし、参ったな……俺、部長抜きで他の奴らまとめきれる気がしないよ」

肩を竦める衣更先輩の気持ちは理解出来る。うるさいし、暑苦しいし、猪突猛進で暴走しがちなところも多々あるけれど、結局俺たちバスケ部はみんな「守沢千秋」という男の元に集い、いつでも彼の輝きに導かれている訳で。そこにあったはずの太陽がいきなり消えてなくなったら、不安な気持ちになってしまうのも仕方がないように思えた。あの人も、あれでなかなか慕われているのだ。

「そうだ!マネージャー、ち〜ちゃん先輩のとこ行って、今日の練習メニューだけでも聞いてきてくんないかな?」

だが、明星先輩のその提案はあまり良い考えとは言えない気がする。
守沢先輩は今保健室。――多分、『彼女』も一緒に。襲い来る既視感に苦い記憶を呼び起こされたのか、窓野先輩の表情が僅かに強張る。

「分かった。じゃあ、戻ってくるまでみんなは外周行っててね」

本当は、少しだけ期待していた。先輩が俺を頼ってくれるんじゃないかって。千秋くんが他の女といるところなんて見たくない、高峯くんなら分かってくれるでしょう、そう、言ってくれるんじゃないかと思っていたのに。
彼女は無理矢理に張り付けた笑顔で、こっちを見ようともしなかった。それがなんだか無性に気に食わなくて。

「おれも行きます」
「…えっ」
「なんだよ高峯、お前も具合悪いのか」
「実はちょっと風邪気味で」
「ったく気をつけろよー。…じゃあマネージャー、高峯のこともお願いします」

呆気に取られた窓野先輩へそう言い残し、衣更先輩たちは外周の号令を掛けに行ってしまった。
身を屈め、こうなったらもう憤りと困惑のない交ぜになった表情を隠そうともしない、彼女の顔を覗き込む。

「お願いします。先輩」

いっそこのまま軽蔑してくれれば、諦めもつくのかもしれない。



☆ミ



ぺたぺたと二人分の足音が廊下に反響している。
さっきからひと言も喋ろうとしない窓野先輩の様子が気になって、そっと傍らへ目を遣った。彼女も同じようなことを考えていたのか、タイミング悪くばちんと視線がかち合う。
慌てて顔を背ける先輩。こちらへ伸ばしかけていた手が、すっと後ろに回された。こんな時でさえ他人のことばかり気にしているのだ、この人は。そんな心配そうに見てくれなくてもいいのに。そんなふうに、思いやってもらえる立場じゃないのに。

「嘘ですからね」
「は」
「風邪気味とか、嘘です。ぴんぴんしてます」

その唇が物言いたげに動いたのを見計らって、ドアを開けた。
ガラッという音とともに、一瞬にして張り詰めた空気。しかし保健室には人の気配がまるで感じられなかった。守沢先輩とプロデューサーの先輩どころか、養護教諭の佐賀美先生の姿さえ見当たらない。

「……いないみたいっすね」

部屋の奥にいくつか置かれたベッドも、全てカーテンが開け放されて空っぽなことが伺える。窓野先輩がほっと胸を撫で下ろしたのが分かった。
部長のことだから、案外あの驚異的な生命力でさっさと動けるまでに回復し、すでに家へ帰ってしまったあとなのかもしれない。何にせよ彼が不在な以上、先輩がここにいる理由はないのだ。

「もう戻っていいですよ」
「でも」
「大丈夫ですって。部長がいなくても、一日くらいなんとかなります」

一度は引き戻されたはずの手が、再び俺に向けて伸ばされる。その指先を振り払おうとした瞬間――

「大丈夫ですか?千秋先輩」

扉一枚隔てて、声が聞こえた。



咄嗟に窓野先輩の手を取って一番窓際のベッドへ引き込み、カーテンを閉める。それとほとんど同時に、『二人』が中へ入ってきた。

「すまない、肩を借りてしまって」
「顔洗いに行くだけであんなふらふらになってる人、放っておけないですから」
「はっはっは。よし、後でお礼にしっかりと抱き締めてやるからな!」

最悪だ。
守沢先輩の大袈裟な物言いが男女問わず有効なこと、転校生の先輩の気遣いが全てその天性のお人好しから発揮されていること、二人があくまで『アイドル』と『プロデューサー』として固い信頼関係で結ばれていること。窓野先輩は知らない。だけど俺がどんなに言葉を尽くしてそれを説いたとしても、彼女にとっては何の救いにもならないのだろう。
今度は、窓野先輩は泣かなかった。泣けなかった。俺がここにいるから。俺が先輩をどんなに好きか、その苦しさを知っているから、彼女はもう俺の前で泣いてくれない。

「高峯くん」

ひんやりとした指先がついに額に触れる。
窓野先輩は馬鹿だ。
俺の気持ちを利用さえしてくれない、優しい先輩がずっと報われなければいい。もっと傷付いて、ボロボロになって、それで

「高峯くん、あついよ」

俺のことを、好きになればいいのに。 
 
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