彼方 | ナノ
 
結局あれから窓野先輩が守沢先輩と付き合い出すことも、俺が試合でシュートを決めることも、まして俺と彼女が『本当の』男女交際を始めることもなかった。

「ほら高峯。あとお前だけだぞ」

『マネージャー、今までありがとう』衣更先輩に手渡された色紙にはたった一人分、俺が文字を書くためのスペースだけがいまだに白紙のままだ。
夢ノ咲学院バスケットボール部の三年生慰労会は、毎年この時期に体育館を貸し切って行われる。そこで引退する上級生にひとりひとり花束と色紙を渡すのだが――ついに当日に至るまで、俺は彼女への思いを形にすることが出来なかった。
勝手に好きになって、勝手に泣いて、勝手に諦めて。この後に及んでいったい何を渡せるというのだろう。そう考えたら、いっそのこと、もう何も伝えないでいたほうが。

「三年生の挨拶の後、花束だけ俺らで先に渡すからさ。書き終わったら、それ持ってマネージャーんとこ行け」
「……でも」
「でもじゃないだろ。お前のせいで遅れてるんだからな」

どこまで察しているのかいないのか、一見責めるような言葉の裏に、衣更先輩のささやかな気遣いを感じる。それ故無碍にすることも出来ず、ただただ埋まらない空白を見つめて溜め息を吐いた。

「先輩」
「ん?どうした」
「バスケってどうしたら上手くなりますか」
「何だよ。珍しくやる気出して」
「…いや、別に」

深い意味なんてない。ただ、何かが変わればいいと思った。変わりたい、と思った。



☆ミ



三年生の挨拶が一通り終わり、最後に全員で円陣を組んだ後、紙コップのジュースで乾杯する。そうして宴もたけなわといったところで、思い思いに名残を惜しんでいる部員達の中から彼女の姿を探した。
「マネージャーなら倉庫に入ってったぞ!」そう声をかけてきた明星先輩の表情からは、先程衣更先輩が俺に向けたものと同種のそれが見て取れたので。なんとも後輩思いの上級生二人に心の中で手を合わせつつ、ひんやりした体育倉庫の扉をガラリと開ける。

「……窓野先輩」

一瞬、泣いているのかと思った。けれども、そんなことはなかった。
緊張で上擦った俺の声に、彼女がぱっと顔を上げる。手には使い古しのクロスが握られていた。

「最後の日にボール磨きなんかしなくても」
「分かってないなあ。最後だからこそやるんだよ、こういうのはさ」
「そういうもんっすか」
「そういうもんっすよ」

初めこそ少し躓いたが、一度口を開いてみれば、思いのほか普通に話せている自分がいることに驚く。先輩の口調も穏やかだった。
隣に腰掛け、彼女の指先がボールを撫でていく様をじっと眺める。俺と先輩の二人しかいない空間にきゅ、きゅという音が響くたび、さざ波のように切なさが押し寄せてきて

「先輩、本当に引退しちゃうんですか」

ぽろり、とこぼれ出た。ちょうど、先輩に初めて「好き」だと伝えたあの日みたいに。

「寂しい?」
「はい」
「私も、高峯くんがいないと寂しいよ」

うそつき。
ずっと守沢先輩のことしか考えてなかったくせに。俺がその手を離した時、追ってこようともしなかったくせに。先輩なんて。
ぐるぐると頭をめぐる非難の代わりに、無言で色紙を差し出した。考えて、考えて、震える文字でようやく形作ったメッセージ。けれどそれらは彼女に読まれるよりも先に、俺の涙で滲んでしまう。

「……うそつき」

一番の嘘吐きは俺なんだと、本当はちゃんと分かっている。
物思いに耽っている時の窓野先輩、守沢先輩の後ろ姿をじっと見つめる先輩が、それでも本当に時々、俺の方を気にしていたことを知っていた。部活が終わったあと、更衣室の前で少しだけ待って、またすぐに走って行ってしまうこと。覗き見た携帯の画面、何度も書いては消したメールの宛先が俺だったことも全部、全部気づいていた。
瞼の裏に焼きついた窓野先輩の横顔。正面から見られなかったんじゃない、俺が向き合うことから逃げてきただけだ。ないものねだりだと思い知るのが恐ろしくて、見返りを求める自分の愚かさに死んでしまいたくなりそうで、「守沢先輩にはかなわない」「窓野先輩が幸せならそれでいい」そうやって全てを誰かのせいにしてきただけ。一番大事な『俺』と『彼女』の関係、ましてや窓野先輩の気持ちなんて、考えようともしなかった。それなのに。

「高峯くん」

まだ、こんなに、このひとがほしいなんて。

「私のこと、ちゃんと見て」

両頬を包み込んだ先輩の手があたたかい。促されるまま顔を上げたら、涙でぼやけた視界の奥に、ようやく彼女の笑顔が見えた。
彼女の言葉が、声が、指先が、身勝手な俺の恋心をすくいあげて、少しずつ『愛』に変えてゆく。

「今、どんな顔してるか分かる?」

口元の黒子から睫毛の先まで、今まで不意にしてきた時間を取り戻す様に、真正面から先輩の深淵を覗き込んで気づいたこと。
こんなの、おかしい、だって

「……おれのこと、好きで好きでたまんない、みたいな顔に、見えます」

自惚れかもしれない。けど、そうじゃないかもしれない。期待と不安に唇を噛んだ俺へ言い聞かせるように、彼女がまた笑った。

「そうだよ」

私のせいでだめになっちゃう高峯くんのことも、私のために一生懸命優しくなろうとしてくれる高峯くんのことも

「大好きになっちゃったんだよ」

確かに、そう、はっきりと。
夢の中みたいに頭がふわふわして、がくりと膝の力が抜けて、窓野先輩の胸へ倒れ込む。彼女は俺よりひと回りもふた回りも小さい身体で、俺の総てを受け止めてくれた。それがあまりに奇跡的すぎて、心臓が一生分の鼓動を鳴らしているような気さえする。

「だ、大丈夫!?」
「……やばい、死ぬかも」

それはいやだよ、と頭を撫でられて、俺もいやだなあ、なんてぼんやり考えた。
窓野先輩の背中に手を回す。甘い匂いが足元から頭のてっぺんまでを余すところなく満たして、傷だらけの心臓を少しずつ朱に染めていく。
誰かを好きになることも、誰かに好きになられることも、全然当たり前のことなんかじゃない。思い通りになんてならないし、いつだって後悔に後悔を重ねて、癇癪を起こしたくなる時だってある。怖くて、痛くて、全部なかったことにしたくて、だけど欲しくてどうしようもなくて。そういうのを繰り返してようやく今、俺は彼女を抱き締めているのだ。
ここは世界の頂点ではない。けれども二人は抱き合って、彼女は笑って息をして



「せんぱい」



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