彼方 | ナノ
 
「おはようございます」

うやむやのまま済し崩し的に、俺と窓野先輩の『男女のお付き合い』は始まった。
毎日朝はこうして先輩が俺を迎えに来て、帰りは俺が先輩を家まで送り届ける。変わったことといえば、それくらい。
昨日観たバラエティー番組の感想とか、今日のお弁当のメインがハンバーグなこととか、お互いに当たり障りのない話題を選んで言葉を交わす。特に先輩はこの数週間、ぱったりと『彼』の話をするのをやめてしまった。
俺と彼女の間に存在する複雑なしがらみを抜きにしても、部長が部長である以上、同じ部活に所属している共通の知り合いだということに変わりはない訳で。話題に上らない方が不自然なのを重々承知していながら、先輩の間違った優しさを甘受し続ける自分がどれだけ卑怯なのかもちゃんと分かっている。
ブレザーの裾から、硝子細工みたいな真っ白い指先がちょこんと覗いていた。この指がもし、あの日俺の涙を拭わなかったなら。

「高峯くん?」

数歩後ろで立ち止まっていた俺に気付いて、先輩が訝しげにこちらを振り返る。それから視線を辿って自分の手のひらを見つめ、しばらく考えたあと、

「……どうぞ」

と差し出した。

「……どうも」

不謹慎に暴れまわる心臓を必死に抑えつけながら、どうにか平静な口調を保つ。
手を伸ばし、一先ず真ん中の三本だけをきゅっと握ってみた。かと思えばすぐにするりとすり抜けた彼女のそれが、強請る様に俺の手の甲を滑っていく。
観念して、指を絡めた。ようやく握り返された窓野先輩の手の、全部が柔らかい。あたたかい。まるで雲を掴むような話だけれど、何もかも本当のことだ。

「有希先輩」

何か言わなければ、と思って、咄嗟に出たのが名前だけだった。まだ馴染みの浅いその響きに先輩の肩が少し強張ったのが分かり、なんだかこちらまで身構えてしまう。

「今日ユニットの打ち合わせでちょっと遅くなるんスけど、先輩どうしますか」
「じゃあ昇降口で待ってようかな」
「了解です」

漠然と夢見ている未来がある。
こんなふうに、二人のあいだに少しずつ小さな約束を積み上げていって、いつしか一緒にいるのが当たり前になって。しわくちゃのシーツの上で頬を真っ赤に染めながら笑う先輩とキスして、セックスもする。そういう夢。
あと少しだ。ひと月もしないうちに先輩は部活を引退して、守沢先輩と顔を合わせることもなくなって、俺たちにはただ張りぼての『恋人』という関係だけが残る。
そうしたら、いつか。

「アイドル科、忙しいの?」
「最近はそうでもないです。みんな、それぞれ部活の大会も近いし」

深海先輩はともかく、鉄虎くんは空手部があるし、仙石くんも衣更先輩伝てに生徒会から諜報の依頼が来て忙しそうにしているし、守沢先輩は言わずもがな。だから今日のミーティング以降は夏の大会が終わるまで、流星隊のユニット活動はしばらく休みだ。

「そっか。…私も、もうマネージャーじゃなくなるんだなあ」
「まだまだ現役でしょ。おれたちがインハイ行くくらいの奇跡が起これば、ですけど」
「……うん。そうだね」

実際問題、難しいのはよく分かっている。
夢ノ咲は芸能活動に力を入れている学校であって部活動を支援している学校ではない。仮に上の大会に進めたところで、守沢先輩がこれ以上の時間をバスケに割くのは難しいだろう。そうして行く手を照らす太陽を失ったチームがどうなってしまうのかぐらい、初心者にだってわかることだ。
多分、次が最後の試合になる。諦めたらそこで終了だとかは一切何の関係もなく、それが一番、現実的な結末だった。

「せめてもう二年…一年遅く生まれてたらよかったのに、って、最近は思うよ」
「どうしてですか?」
「私、高峯くんに期待してるから」

びゅう、と強い風が吹く。

「高峯くんはこれからもどんどん背が伸びて、バスケだって上手くなるでしょ。いつも弱気な君がいつか本気を出す日がきたら、みんな黙っていられないでしょ。そしたらきっと、うちはすごいチームになるんだろうなって」

心の奥底からすくい上げるための言葉を必死に探したのに、結局何ひとつ渡せやしない。代わりに、スカートの裾を直しながら寂しげに笑った、窓野先輩の手を強く握り直す。
頑張ります。次の大会、ひとつでも多く勝ちます。先輩が少しでも長く部活をしていられるように、シュートを決めます。
本当はすごく伝えたかったけど。

「高峯くんが引っ張っていくバスケ部、見てみたかったよ」

そうしたら俺と本当に付き合ってくれますか。って、続けてしまいそうで、言えなかったのだ。



「おおーい、高峯!」



背後から聞き覚えのある大声がして、ぱっと繋いだ手を離した。
なるべく何でもない体を装って、いつもみたいに面倒くさそうな顔を作って、のろのろと振り返る。――彼女のほうは見ないまま。
思った通り後方では、守沢先輩が俺に向かってぶんぶん大きく手を振っていて。今ちょうど、ものすごい勢いでこっちに突進してきたところだった。

「おはよう、千秋くん」

その声を聞いた途端、彼の表情が心なしか曇った様に見えたのは、きっと気のせいではないんだろう。

「…おお、有希も一緒だったのか!二人とも朝から仲良しだな!」

ほんの少し、それは窓野先輩も気付かないくらい本当に微妙な変化だったけど。俺が隊長の顔を腫らしてしまったあの日以来、守沢先輩の彼女に対する態度はどこかぎこちない。

「そこでたまたま会っただけっスよ。守沢先輩は朝からうるせえですね」
「失敬な!ヒーローたる者、活動時間中は常に全身全霊の状態でだな…」

だってほら、「俺と窓野先輩が一緒に登校していたのは全くの偶然です」って、そう言っただけなのに、こんな嬉しそうな顔して。
無自覚なのかそうでないのか、まだいまいち判断はつかないが、とにかく彼がもう無視出来ないところまで窓野先輩のことを意識し始めていることは確かなようだった。殴った甲斐があったと胸を張るべきなのか、余計な真似をしてしまったと後悔するべきなのか。

「あ、後ろから生徒会の副会長さんが」

答えなんか決まっている。

「何!?…すまんが先に行くぞ有希、高峯。俺はまだ捕まるわけにはいかんのだ……!」

嵐のように現れて、嵐のように去っていく。そんな彼の背中をじっと見つめる、彼女の横顔。俺が恋した、彼女のまなざし。
敵う気がしなかった。悔しくて、むなしくて、空の右手を握ってぐっと爪を立てた。

「……窓野先輩」

いつか、なんて、そんなの永遠にこない日と変わらない。

「守沢先輩は、窓野先輩のこと好きですよ」

いっそのこと、もう二度と立ち直れなくなるくらいに傷付けて欲しい。追いかける気さえなくなるくらいこっぴどく振り回して、俺に諦めさせて欲しい。
ただ、あなたが一緒にいて一番綺麗に笑える人と、幸せになってくれればいい。独り善がりな恋のあと、例えばこの手に残るものがたったのひとつもなくたって、俺はそれで構わないのだ。 
 
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