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深夜二時に震えた携帯。突然のメールの差出人は、名前先輩だった。

『みどりくん』

本文はそれだけ。
たったそれだけなのに、気付いたら家を飛び出していた。風呂上がりに着替えたばかりのジャージとサンダル履きで、両親にばれないよう裏口からこっそり。人気のない商店街を駆け抜けて、彼女に会いにゆく。頬を撫でる風が冷たかった。
本来なら、絶対こんな非常識な時間に連絡をしてくるような人じゃない。やむを得ない事情があるなら、それこそ誠心誠意言葉を尽くして説明してくれる筈だ。だからこそ俺はあの五文字から、彼女のSOSを読み取ったのであって。

『あけてください』

玄関ドアの前、変換する時間さえ惜しんでそれだけ返した。間も無くがちゃりと音がして、扉の奥から名前先輩が顔を出す。やっぱり。
ほんの少し、目が赤かった。



☆ミ



名前先輩の部屋に入った経験はまだ両手で数えられるくらいしかなかった。
一人で暮らすには些か広すぎるリビングのソファーに、ぴったりとくっついて座る。テレビから垂れ流されるお笑い芸人のコントだけが、今この場で唯一存在している音だった。俺を中に招き入れぬるめの紅茶でもてなした以降、彼女はまったく口を開こうとはしないので。

――これは、相当、参ってるな。

先輩は溜め込んだ不平不満を発散するのが下手くそだ。誰に対しても声を荒げることはないし、俺みたいに死にたいだの逃げたいだの面倒くさいだのと大っぴらに愚痴をこぼすようなこともしない。
怒るのも、嘆くのも、誰かに助けを求めるためにすることだ。だけどこの人にはそれが出来ない。そんなことをする余裕すら残っていないのだ。そう考え至り改めて、彼女の背負う『プロデューサー』という看板の重みを実感した。
そこそこきちんと整頓された部屋には、物があまり多くない割に生活感が滲んでいる。手入れの行き届いた調理器具が並ぶキッチンとか、机に出しっぱなしにしてある英語のテキストとか、前回俺が置いていったTシャツが畳んで置いてあったりとか。どこを見回してもさっきまで先輩がそこにいたような気がして、俺は結構好きなんだけど。
やっぱり、本人が笑っていないことには物足りない。

「名前先輩?」
「……おなかが」

くたり、と小さな頭が俺の膝の上に乗っかった。

「おなかが、いたいの」

真夜中に恋人を呼び出し泣き顔を晒してしまったことに対して、今にもパンクしそうな頭で必死に考えた言い訳だったんだろう。敢えて追及することもせず、彼女の寝巻きの下から手を入れなめらかなお腹をさすった。

「先輩は悪くないですよ」
「……私、まだ何も言ってないよ」

少しだけ、むっとしたような口調。日頃どんなに守沢先輩に振り回されようが穏やかな表情を崩さない、そんな彼女の貴重な一面に思わず顔が綻んでしまいそうで。誤魔化すように言葉を続ける。

「おれの『正しい』と『正しくない』の基準は、先輩が幸せかそうじゃないかってだけなんで」

何があっても、味方なんです。
だから『怒る』も『泣く』も『何もしない』も、俺に見せてほしい。『怖い』も『痛い』も『苦しい』のも、俺にだけは。

「それってなんか、翠くんがものすごく私のことを好きみたいだね」
「そうですよ。知らなかったんですか」

わざと無神経に自分のことも俺のことも傷つけるような言葉を吐く、そういうところまで全部。
柔らかな頬の両側を摘んで引っ張ると、場の雰囲気に不似合いな間の抜けた悲鳴が先輩から漏れる。「らにすんろ」と回らない呂律で抗議しようとする唇は、とっくに自分のそれで塞いでしまった。

「キス、しようと思って」
「……事後報告はだめ!」

赤くなった顔を隠すように寝転んだ体勢のまま俺の方へ向き直り、なぜか先輩はジャージを捲り上げた。そしてへその辺りに口を付けると、ぶう、と大きく息を吐き出す。その子供みたいな所作に、思わず声を上げて笑ってしまった。

「翠くん最近死にたいって言わないね」
「あー。確かに、そうかも」
「今なら一緒に死んであげてもいいと思ったのにな」

どこまでが本気でどこまでが嘘かなんて知らない。ただ、俺の隣で彼女が笑う。大切なことはそれだけだ。

「それも悪くはないですけど、どうせ一緒に行くなら俺は天国じゃなくてベッドがいいです」
「……ばか」



無抵抗の身体を横抱きにして寝室へ向かう間に、すやすやと寝息が聞こえてくる。
もう一度瞼に唇を落としながら思うことは、明日の世界がどうか彼女にとって優しいものであるように。 
 
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