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「おれ、この部屋出ようと思ってます」

彼女の取り落としたスプーンが、皿の上でかたん、と小さな音を立てた。



ひとつ歳上の名前さんが高校を卒業すると同時に付き合い始めて今年で五年。そのうち流星隊のメンバーは皆道を別たれたが、未だに芸能活動を続けている。
俺もその例に漏れず、ときどき雑誌のモデルをしたりしながら細々と生活していた。学生時代と大きく違うのは、大切な人が『プロデューサー』ではなく俺の『恋人』としてそばにいてくれること。
元々は、ひと足先に社会人になった彼女が「撮影スタジオに近いから」という理由で借りた広めのワンルームだった。名前さんと笑って、泣いて、喧嘩して、一緒にご飯を食べた部屋。愛着がないと言えば嘘になるけど。
季節は巡る。誰も、何も、変わらないままではいられないのだ。

「ちょっと前から事務所移籍らないかって誘われてたんです。そこは今のモデル事務所みたいな感じじゃなくて、映画とか舞台の方に力入れてるらしくって」

照れくさくてとうとう口には出せなかったが、芝居の勉強をしたい、というのは兼ねてから考えていたことだった。それには子供たちのヒーローとして現在テレビで活躍している守沢先輩の影響もあったし、単純に「老いたら終わり」のモデル業界に対する不安もある。
『支えてくれる人』が欲しかったから一緒にいたんじゃない。自分の手で名前さんを支えたいと思ったからこそ、俺はこうしてまた夢の舞台へ戻ってきたのではなかったか。

「はい、って返事しました。そうしたら向こうの人が『事務所の近くにもっといいマンション借りないとね』って」

「そっか」これまでじっと黙って俺の話を聞いていた名前さんは、それだけ言うとまたスプーンをカシャカシャ動かし始めた。デザートに出たクレームブリュレをつられて一口食べたけど、正直甘いだけで味はよく分からなかった。
恋人がいるということは、まだ移籍先に伝えていない。今の俺が立っている場所は、努力や才能だけで生き残れる世界ではないのだ。それは俺も、彼女もよく分かっている。

「名前さん」

だけど。

「結婚、しませんか」

どんなに輝いたステージだって、あなたが見つけてくれなければ意味がない。
きっと彼女は怒るだろう。俺のために優しい嘘をいくつも並べて、首を横に振るのだろう。だけど俺にだって譲れないものはある。
どれだけみっともなくてもいい。追い縋って、駄々をこねて、必ずこのひとを手に入れるとそう決めたのだ。



大きな瞳に涙がキラリ。こぼれた滴を飲み干したら、あなたのひかりになれるだろうか。



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