textbook | ナノ
 
「まさか、最後の最後まで高峯くんの補習見る羽目になるとは思わなかったなぁ」
「そうっすね」

夕暮れ時、慣れ親しんだ学び舎に、私と彼以外の人影はない。無意識なのかシャーペンの先でこつこつと机を叩きながら、適当な相槌を寄越す高峯くんの表情はどこかうわの空だった。
僅かな期間受け持ったクラスに所属していたというだけの背が高い男の子は、よりにもよって私が担当している古典の小テストの結果が極端に思わしくなく。結局、実習の最終日に至るまで、私は彼の放課後学習に付き合わされることとなった。
他の教科の成績を見るかぎり、高峯くんは意欲こそないが別段手のかかる生徒というほどでもない。「どうして古典だけ?」けれどそれを訊ねることは、彼に言わせれば随分と野暮な行為であるらしかった。
落ちかけた陽の光に照らされて繊細な面差しが浮かび上がる。まだ未成熟な青さを残す顔立ちは精悍な身体付きには些か不釣り合いで、けれどもそのアンバランスさこそが彼の造形の美しさを殊更際立たせているようにも見えた。綺麗な『男の子』だ。

「名前さん、明日になったらもう『教師』じゃなくなるんでしょ」

責め立てるようにも、追い縋るようにも聞こえた。
空いた机の上に腰掛けながら、わざとらしく教科書へと落としていた視線をあげる。いつからだろうか。彼は私を見ていた。
まっすぐに、私を見ていた。

「明日までは『教師』だよ。ちゃんと苗字先生、って呼びなさい」

若さ由来の蛮勇に滾る青い双眸。ただ徒らに歳だけを重ねてきた私には、そんな彼の情熱を屁理屈ではねつけることしか出来ない。俯瞰するにも、許容するにも。中途半端で、何か足りない。
もっとつまらなそうな顔をすると思った。一度はっきりと突き放せば、それで彼の気もおさまるだろう、と。
けれど高峯くんは存外切なそうな表情で、泣き出しそうな声で。「名前さん」そんなふうに、私の名前を呼ぶのだ。

「……私がここを辞めたところで、高峯くんの望む通りにはならないよ」

がたん、と音がして、彼が立ち上がった。シャーペンを机上へ転がした大きな手のひらが肩に重ねられ、ぐっと力を込められる。しかし駄目押しのようにもう一度、私はわざと高峯くんが傷付くであろう言葉を選んだ。

「いっときの感情に流されるのはやめなさい。恋愛がしたいなら、もっと同じ年頃の女の子とだって出来るでしょう?」

廊下ですれ違うたびに肌を刺す熱視線。気付かないわけがなかった。
どうしてわざわざこんな女を選んでしまったのだろう。高峯くんの尊い時間を、眩ゆいほどの青春を犠牲に出来るだけの価値なんて、私にはない。
『教師』だから。『歳上』だから。そんなもの、あと数年もすれば何の値打ちもなくなると言うのに。多感な年頃にたまたま近くにいた女の付加価値だけを見て、前途ある若者が心を擦り減らしてしまうのは大きな間違いだ。そして曲がりなりにも大人である私には、彼の過ちを正す義務がある。
柄にもなく高圧的な態度も、棘のある言葉も。今はそうでなくても、きっと高峯くんのためになる。いつか、彼もそれを分かる日が来る。

「いやです」

けれど、高峯くんは首を縦に振らなかった。

「おれ、他の学校で、男子がみんな『苗字先生』のことエロい目で見たりすんのとか……モタモタしてる間に、名前さんがおれが知らないどっかの男と結婚、したりすんのとか」

ぜったい、いやです。
強い力で肩を押され、背中を反らせて後ろ手をついた。くしゃりと音を立てたのは、生徒たちから別れの挨拶とともに渡された手紙とスイートピーの花束。
青い瞳はもうすぐそこまでに迫っていた。

「今名前さんが大きい声、出したら、おれ、学校辞めないといけなくなるかもしれない」
「…高峯く、」
「これでも、気の迷いだって言うの?」

キスされる、と思って、咄嗟に口元を覆った。
けれど「知ったことか」と言わんばかりに高峯くんは私の腕を掴み、遮った手の甲にそうっと唇を寄せる。
ちゅっ、ちゅっ、と小さな音を立てて、くっついて、離れて。こちらが力任せに振りほどけないのを良いことに何度も何度も繰り返すから、動揺なんてしている場合じゃないのに、頭がどうにかなってしまいそうだ。

「っ、は、ぁ、名前さん」

一生のうち、こんなふうに全身で誰かに「好き」だと言われることなんて、あと何回あるだろう。
自分が一番よく分かっている。高峯くんを単なる『生徒』として見ていたことなど、これまでにたった一度だってなかった。
何ともぞっとすることに。本当はずっと始めから、私にとって、彼はひとりの『男の子』だったのである。
(だとしても)越えてはならない壁は、確かにそこに存在している。

「……名前さん、す」
「だめだよ」

決定的な台詞を口にしてしまう前に、私は高峯くんの唇を自分のそれで塞いだ。
勢いよくぶつかった歯が音を立てるのも構わずに戸惑う舌先を絡め取り、背中へ腕を回す代わりにネクタイの結び目を引きながら何度も吸った。いくら粘膜と粘膜を擦り合わせたところで、ひとつになんかなれっこないのに。
「っ、は、」やがて、彼の深呼吸とともにゆっくりと唇が離れる。今度は高峯くんが尻餅をつく番だ。

「これっきりだよ」

大人がどれだけ身勝手で、ずるい生き物なのか――私が彼に教えてあげられることはそれだけ。

「だから、お願い。もう私のこと忘れて」

教室の床へ座り込んでしまった高峯くんに向かって腕を差し出す。けれども彼はその手を取ってはくれなかった。ただ、綺麗であたたかなしずくがひと粒、ぽたりと落ちた。 
 
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -