textbook | ナノ
 
独りになりたくなかった。一人になりたかった。
散らかり放題の自室に鍵をかけて、ベッドの上で膝を抱えて。明かりも付けず、ただじっと時が過ぎるのを待っている。いっそのこと眠ってしまえたらよかったのだけれど、皮肉なまでに意識ははっきりとしていた。
こん、こん。もはや何度目かも分からないノックの音を聞き流す。後ろめたい気持ちだけが残る。
どれほどの時間が経ったのか、相も変わらず合わせる顔はないんだけれど。どんなに「この世の終わり」みたいな気分でいても、一日三度きっちりお腹が空く。人間とはそういう生き物なのだ。悲しいね。
宗くんが――「好きなひと」が、「すごい人」だということに、気づいていなかったわけではなかった。ただ、正しく理解出来ていなかっただけ。
『奇人』。きらびやかな舞台の頂上で、彼はそう呼ばれていた。ある意味では適切な表現であると言えるし、ある意味ではまったくの見当違いであるとも言える。けれども、そこに大衆からの確かな尊崇と畏怖が込められていることに違いはなかった。おそらく彼らは、宗くんが自分たちと同じ『人間』であると認めるのが恐ろしいのだ。あんなにも美しい、身を引き裂かれるほど凄惨で繊細な芸術を、物語を、世界を。人の手が作り出してしまえるという事実を、許容することが出来ず。
私には彼らの気持ちがよく分かった。なぜならそんな私もまた、絶望的に平凡なただの『人間』だからだ。
ずっとそばにいたかった。けれど本当ははじめから、宗くんは私より遠く離れた場所にいた。
このちっぽけな器では、彼が渡してくれるものの半分も受け止めることが出来ないと悟った。例えどんなに愛していても。私には、宗くんの言葉が分からない。

「名前」

返事など無いと分かっているくせに、扉の向こうで、宗くんが私を呼ぶ。その声音がいつも彼の使うそれよりも幾らか優しいものであったので、なんだか余計に情けない気持ちになった。

「部屋へ閉じこもるのにも飽きた頃合いだろう。食事の支度が出来たよ。……そろそろ出てきてはどうかね」

宗くんの舞台を見たあの日以来、私がこうして塞ぎ込んでいる理由を彼は知らない。話したところできっと理解すらしてもらえないだろう。そう考えたら、閉ざした口がどんどん重たくなっていった。
「君の目には完璧なものしか入れたくない」と悪天候や身体の不調を言い訳に、これまで宗くんは私をライブへ呼んでくれなかった。彼にも色々思うところがあったのだろう。実際、少し前までの宗くんは、まるで見えない無数の糸に雁字搦めにされているようでとても見てはいられなかったのだ。
ある時を境にしがらみから解き放たれ、帝王としてアイドルの世界に再臨した『斎宮宗』。その瞬間を、私は何よりも待ち望んでいたはずだったのに。
実際に目の当たりにしてみて、この胸中を占領したのは単なる感慨や喜びではなく、それらを真っ黒に塗り潰す圧倒的な劣等感。そんな自分がたまらなく嫌だった。醜い私を、宗くんに見てほしくなかった。
遠ざかる足音を聞きながら、今日も渡せなかった数々の言葉を心の内で反芻する。
優しくしないで。私のことなんか放っておいて。
――もう、私たち、一緒にいないほうが、

「いい加減にしたまえ」

涙が溢れるよりも先に、部屋に轟音が響き渡った。





「どーん」とか、「がしゃーん」とか、とにかく大きな音がした。何が起こったのか全く理解出来なかった。
巻き上がった土埃の中、突如現れた宗くんが、前のめりの体勢からのろのろと顔をあげる。
吊り上がった目、深く皺の刻まれた眉間に、への字に歪んだ震える唇。(め、めちゃくちゃ怒っている)おまけにその手には、宗くんが愛用している私の身の丈ほども大きい両手斧が握られていた。

「しゅ、宗くん?何を…と、とりあえず落ち着いて、」
「喧しいッ!」

激しい怒号が制止の声を遮る。
真っ二つになった扉とあたりに散らばる木片を眺めながら、少しずつ今の状況を咀嚼した。
いつまでも部屋から出てこない私にしびれを切らした彼は、どうやら怒りに任せて斧で入口をぶち破ったらしい。そういえば、つい先日も宗くんは心無いインターネットの書き込みに怒髪を衝かれてパソコンを一台駄目にしていたような気がする。
いっときの激情に任せて周囲に当たり散らすのは彼の悪い癖だ。取り返しのつかないことをしでかす前に何とかして止めなくては、と、私は気づけば数日ぶりにベッドの上から立ちあがっていた。

「百年早いのだよ!君が僕を無視するなどッ」

がしゃん、と、斧が床に落ちる音がする。駆け寄るとともに力強く手を引かれて、気づいた時にはもう、身体は宗くんの腕の中だった。

「こ、の……小娘が、」

私のものではないぬるい水滴が頬を伝う。
――宗くんが泣いていた。



「…宗くんって、泣いてても綺麗なんだねぇ」

乱れた前髪をそっと払い、その瞳を下から覗き込む。
彼のからだを構成しているものは私の目には全てきらきらと輝いているように見えて、全部が全部、すごく大事なたからものだった。今だってそう。
宗くんの落としたあったかい雫が、私の奥底で凝り固まっていた卑屈をゆっくり溶かしていく。

「当然だろう。誰に向かって物を言っているのかね」
「そうでした。ごめんごめん」
「君は……僕は君の造形をそれなりに好ましく思っているけれど、君は僕ほどは完璧に美しくないから」

いつでもちゃんと、笑っていてくれないと、困る。
普段の仰々しい喋り方をすっかり忘れてしまった彼は、俯いたまま、その両頬を真っ赤に染めていた。(ああ、宗くんだ)これまでと何ひとつ変わらない。
可愛い、可愛い、私の帝王さま。

「君がそばにいないと、どうにも調子が狂うのだよ。舞台に支障が出たら責任を取ってくれるのかね」

ノートパソコンは壊れた。

「僕に気に食わない部分があるならそう言えばいい。君にはその資格がある。…だが、」

部屋の扉もさっき壊れた。

「二度と、僕の前から黙って消えることは許さない」

それでも、宗くんは私を抱きしめてくれたのだ。
ありのままの自分を受け入れるには、まだ時間がかかる。彼がどう思っていたとしても、きっとこの先、負い目や引け目が消えることはない。
けれど、足りない距離は宗くんが埋めてくれた。あの我が儘で、せっかちで、怒りんぼうの宗くんが、壊れかけた絆を捨てないで、私が放り投げた関係を拾い上げて、また繋ぎ合わせてくれた。『二人』には――『私』には、それだけの価値があるのだと、そう。

「うん、わかったよ。……ごめんね」

だけど、ありがとう。
このちっぽけな脳みそでは、到底、宗くんの全てを理解することは出来ない。それでも私にはこの人しかいないし、多分、宗くんも私じゃないと駄目なのだ。
口約束の代わりに小指を絡ませれば、ふん、と憎たらしげに息を吐く。いくら傲慢な態度を取られたところで、涙目のままではいまいち迫力に欠けるのだけど。

「シチューのいいにおいがする」
「食事の時間だと言っただろう。ほら、さっさと行くよ。せっかく焼きたてのパンが冷めてしまう」

まるで物語の中のお姫様みたいに。両腕へ力を込めて、宗くんが私の身体をひょいと抱え上げる。バランスを崩して落ちてしまったりしないよう、こちらも慌てて彼の首に腕を回した。

「そんなことしなくても一人で歩けるのに…」
「煩い。僕は忙しいんだ。これから、名前と離れていた時間を取り戻さなければならないのだよ」

何か文句があるのかね。
挑みかかるような眼差しで、まっすぐ私を見据える宗くん。その頬に唇を落として応戦すれば、わざとらしく舌を打ちながら真っ赤になった彼が歩みを早めた。
「好きなひと」が「可愛い人」だった。「好きなひと」が「優しい人」だった。たったそれだけのことが、さっきまで失意のどん底にいた私を、一瞬にして世界一幸せな女の子に変えてしまう。
人間とは得てして単純な生き物なのだ。万歳! 
 
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