textbook | ナノ
 
(こまったな、)眠れない。もう丸二日も。
心因性のものなのか何なのか、このところ流星隊の仕事に家の手伝いにと大忙しで身体は悲鳴を上げているにも関わらず、いざ布団に入って瞼を閉じても一向に睡魔がやって来ないのである。カチカチと時計の針の回る音ばかりが耳につき、何度も時刻を確認するうちに目はすっかり暗闇に慣れてしまって、何度身じろぎを繰り返したところで頭に浮かぶのはもはや取り返しのつかない「どうしてもっと上手くできなかったんだろう」ばかり。頭がおかしくなりそうだった。
昔から、三ヶ月に一回くらいの頻度でそういうスイッチが入ってしまう時期がある。幸いにも体力は人よりあるほうだから、普段なら特に策を講じなくても日常生活へ支障が出始める前に気付くと治っていたりするんだけれど。今回は、少し様子が違った。
今朝なんか、いつものように家まで俺のことを迎えにやって来た、いつものように騒がしい守沢先輩に、らしくなくマジのトーンで「うるせえ」なんて罵声を浴びせてしまったりして。守沢先輩はああいう人だから俺に何を言われたって別に怒ったりはしないけど、一応目上の相手だし、表面上笑ってるからって少しも傷付いていないかと言われればそれは違うし……早い話が自己嫌悪なのだ。いくら放っておけば治るといったって、他人に当たり散らすのは本意ではない。
どうにかして眠らなければ。そう思ったら、自然と保健室の方へ足が向いていた。たかだか寝不足が原因で午後の授業をまるっと放り出してしまうのもその後のことを考えるとなかなか憂鬱ではあるが、手段を選んでいられる余裕も正直なところあまりないのだ。

「失礼しま…」

す、と言い終える前に、丸い瞳と目が合った。
扉には「外出中」のプレートが下がっていた。佐賀美先生はここにはいない。他に人の気配もない。

「…どもっす」

そんな状況で、靴を脱いで今にもベッドへ横になろうとしていた苗字先輩は、入室してきた俺の姿を認めるなり慌てて脚を引っ込めた。チェックのスカートがはらり、捲れる。

「高峯くんか。こんにちは」
「こんにちは。…先輩、具合悪いんですか?」

畏まったように背筋を張ってシーツの上で膝を抱える、彼女の隣のベッドへ俺も腰を下ろす。別に隣でなくたっていいんだけど、話をするのに変に距離を置くのもそれはそれで自意識過剰で気恥ずかしいし。

「私は大丈夫って言ったんだけど。休めるときに休んでおきなよ、って明星くんたちに怒られちゃって」

俺たちのプロデューサーは忙しい。その癖本人はやると決めたら頑固な人だから、ついつい自分のことを後回しにしてしまっているような場面も多い。このあいだ流星隊にテーマパークの仕事を取ってきてくれた時だって、なんだかしょっちゅうふらふらしていたような気がする。特に今回先輩の仕事は裏方がメインで俺たちと顔を合わせる時間も少なかったのに、それでも目に余ると感じたくらいだから――どこにいても俺が彼女の姿をついつい探してしまいがちなのはさておき――よほど疲れが溜まっていたのだろう。

「っていうか、高峯くんこそ。どうしたの?」
「おれは…ここ数日、まったく寝れてなくて」
「ありゃりゃ。それは大変だね」

平たく言えばただの寝不足。それでも先輩は、俺の言葉の表面だけをさらって軽んじたりはしない。いつだって一生懸命、親身になってくれようとするけど、「何か悩み事?」なんて奥の方までは踏み入ってこない。俺としては、苗字先輩にならちょっとくらい踏み込まれてもいいなって思ってるんだけど、でも。(そういうところ、好きだ)
何かと偏った層の男子生徒ばかりが利用する夢ノ咲学院の保健室は、体格の良い患者やシングルのサイズ感に慣れない御曹司などにも対応出来るよう二台のベッドが地続きになっている。一台ずつ使いたい時は、ただ中央にあるカーテンを引くだけ。
その白いカーテンに、先輩の細い指がかかった。

「じゃあ、私はもう休むね。高峯くんもお大事に」
「あ、はい。おやすみなさい」

おやすみ、たかみねくん。
囁くように形作られた言葉が、身体の奥へじんとしみ込んでいく。



☆ミ



――いや眠れるわけないし。
薄い布一枚隔てたその向こうで、好きな人が寝ている。ひどく無防備な状態のまま、俺の葛藤になんか気付きもしないで。一大事だ。思春期真っ只中、健全に不健全な年頃の男子高校生にとって、今のこの状況はまぎれもなく一大事だった。
規則正しい吐息、微かな衣擦れの音さえもはや妄想を掻き立てる材料でしかなく、火照った身体がまた微睡みから遠ざかる。芽生えた欲をひた隠す様に頭から布団を被って、自らのそれに溺れそうになって、の繰り返し。(に、さん、ご、なな、)休息の足りていない頭はろくなことを考えない。考えることすら出来ていないのかもしれない。ただ、ただ、衝動に駆られて。

「……先輩、」

苦し紛れに呼んだ自分の声は驚くほど擦れていた。お願いだから、返事なんかしないでほしかった。

「……んー?どしたの高峯くん、なんかあった」

少しとろんとした口調から、片足の先ほど夢の世界の気配を感じる。呼び戻してしまったことを申し訳なく思う反面、なんで起きちゃうんだよ、と俄かに苛立つ自分の身勝手さ。まったく嫌になる。
気が付いたらカーテンに手をかけていた。

「やっぱり、おれ、どうしても眠れなくて」

ちょうどこちら側に寝返りを打ったところだったらしい。苗字先輩は突然隣に現れた男の後輩を見て一瞬目を丸くしたけど、すぐに微笑んで、「そっか」そう赤ん坊でもあやすように俺の頭をくしゃりと撫でた。

「寝よう寝ようって思うから、余計にだめなのかも」
「そっすかね…」
「うん。あと、保健室って非日常感があって逆に落ち着かないでしょ。出来るだけ普段通り、今までちゃんと眠れてたときの状況をイメージしてみるとか」
「なるほど」

下心120パーセントの相談にも真剣に向き合ってくれる、先輩の優しさが俺を際限無く駄目にしていく。骨抜きにされて、とろかされて、ぐずぐずになったそこへ素知らぬふりで漬け込んでしまいたくなる。

「パジャマとかは別に、こだわってないし…枕の高さも家のと同じくらいだし、……あ、」

毎晩抱いてる、ゆるキャラのぬいぐるみがないです。
深く考えもせず声に出して、瞬時に後悔した。(バッカじゃねえの)ぬいぐるみ抱いて寝てる男子高校生って。バッカじゃねえの。バッカじゃねえの。
「……」苗字先輩の気遣うような沈黙が痛い。熱くなった顔を思わず手で覆った。しにたい。

「……そんじゃ、抱いてみますか?」



――深刻なエラーが発生しています。



「は?」寝てなさすぎてついに耳までバグったか、と、顔を上げた。けれど目の前にあるのは依然真剣な面持ちで、こちらに向かって両手を広げる苗字先輩の姿。いや、いや、いや。

「そ、そっすね、先輩ってなんかおれの好きなゆるキャラに似てるし、リラックスして入眠出来るかも…」

んなわけねえだろ。
心の中では1000回ツッコミを入れているというのに、身体がさっぱり言うことをきかない。いっそ冗談だと笑ってほしかった。
カーテンの境界を越えて、彼女がこちらに身を寄せてくる。心臓がばくばくする。
掛け布団を一度剥がして先輩を迎え入れると、ブレザーを脱いでブラウスだけになったその背中にそうっと腕を回した。スカートの下にちゃんとジャージを履いているのを確認して複雑な気持ちになりながら、布団を掛け直す。たったひとつのベッドに年頃の男女が二人。いかがわしいにも程がある。
緊張のあまり止めていた息を小刻みに吐き出した。心臓の音が聞こえていなければいいな、と思うけれど、多分ばればれだろう。それくらい二人の距離は近かった。俺がひとたびその気になるだけで、この大きな身体は彼女からすべてを奪ってしまえる。

「んふふ。すっぽり収まっちゃったね」

食っちまおうか、と思う。
どうしてそんなふうに笑っていられるんだろう。いつも思うけど、この人はどうにも危機感というか、警戒心が薄すぎる。完全な安牌だと思われているのか単に考え無しなだけなのか、それとも(それとも)

「じゃあ、今度こそおやすみ」

いくら考えたって、ぐちゃぐちゃになった頭では期待と欲望の区別もつきやしないのに。
全部先輩が悪いんです。身動きが取れないのをいいことに、顎を掴んで、上から長い睫毛を覗きこむ。小さな悲鳴を洩らした震える唇をひと思いに飲み込んで、ゆっくりとその感触を堪能する。今更涙目になった先輩が俺の邪すぎる恋心を自覚し、慌てて胸を押し返したところでもう手遅れだ。俺は彼女を蹂躙する。たった一度の苦い思い出になっても構わないからと、刻み込むように口付けを繰り返す。
――なんて、血迷ったことが、出来るはずもなく。
俺は息を殺して苗字先輩の寝顔を見つめていた。ただ、ただ、黙ってじっと見つめていた。
シーツに散らばった髪の毛が鼻先をくすぐるが、少しでも身動ぎすれば最後、そのどこもかしこも柔らかい身体に触れてしまいそうで出来なかった。背中に回した腕だけで所謂『抱き枕』のていはなんとか保っているものの、二人の間にはいまだに一定の距離がある。というか、そうでもしなければ俺が色々耐えられそうにない。
一体俺が何したって言うんだ。なんだってこの人は、こんな状況でこんな呑気な顔で眠っていられるんだ。
そう思ったらなんだか一周回って腹が立ってきて、衝動的に先輩の眉間を人さし指でぎゅっと押さえる。万が一起こしてしまっても、これくらいならこっちだって「寝惚けていたから」でなんとか誤魔化せるだろう。そんな狡い考えもあった。しかし、しばらく待ったところで特に彼女からのリアクションはない。
調子に乗って、次は垂れ落ちた毛先をくるくると巻き取り、唇を寄せてみた。女のひと特有の、シャンプーの甘い匂いをいっぱいに吸い込む。だけどやっぱり先輩の反応はない。
どこまでだったら許してもらえるだろうか。丸っこい頭をそうっと撫でて、そのまま手のひらで頬を包んで。(うん?)ふにふに、と耳朶を揉んだところで、あることに気がついてしまった。

(……先輩、耳、真っ赤だ)

ぶわ、っと、込み上げてきた衝撃に息を飲む。
苗字先輩は起きている。意識があるにも関わらず、わざと俺にそれを悟らせないようにして、こうやって好き勝手いろんなところに触らせている。
(それって)それって、それって。相も変わらず睡眠不足の頭は思ったように働かない。「どういうことですか」と問いかけることも出来ず、ただ固まったまま動けない。

「んん、」

わざとらしく可愛い呻きを上げて、彼女が身をよじった。その拍子に、さっきまで一定に保たれていた二人の距離がほんの少し縮まる。すりすり、と猫のように、先輩が俺の胸板に額を擦り付けた。
(心臓、ばくはつ、しそう)すきです。先輩、すきです。大好きです。言ってもいいんだろうか。俺はこのひとに、俺の全部を伝えてもいいのだろうか。

「ッ、苗字先輩、っ!」



――すう、すう。



意を決して口を開いた途端、耳に届いたのは穏やかな彼女の寝息だった。「うそだろ」そんなまさか、と思いながら先輩の顔を覗き込むと、やはり無邪気なまでに愛らしい表情。いつの間にか耳朶の赤みも引いている。

「…ふは、」

漏れ出たのは気の抜けた笑い声。
まんまと振り回されてしまい、ショックというよりはむしろバカバカしい気分だ。残念なような、だけどやっぱりほっとしたような、そんな気持ちでため息を吐けば、やっと緊張の解けた身体へ自然と眠気が降ってくる。

(こんなに簡単に、解決出来ることだったんだなぁ)

多分俺は拗ねていたのだ。みんなの『プロデューサー』に、苗字先輩にかまってもらえないのがさみしくて。ほんの少しだけでもいいから俺の、俺ひとりのために、困ってくれたらいいのにって。
つむじの辺りにちゅっとキスを落とす。抱きしめた腕へ僅かに力を込めて、ゆっくりと瞼を閉じた。

次に目が覚めたら、まずは彼女に何て言おうか。 
 
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