textbook | ナノ
 
「翠、電話ー」

風呂上がり、エアコンの効いた自室で漫画を読みつつ至福のときを過ごしていた俺を、階下から母親が呼んだ。部屋の時計が指しているのは午後20時を少し回ったところ。一瞬また守沢先輩かと思ったが、それにしてはいつもより時間が遅い気がする。
渋々持っていた本を開いたまま机へ逆さまにして、とんとん階段を下りてゆく。「なんか、女の子から」そう口元をにやけさせる母から仏頂面で受話器を受け取ったあと、小さく首を傾げた。
こんな時間に電話をかけてくる異性の知り合いに心当たりがない。プロデューサーの先輩か?でも、緊急の用件なら携帯に直接連絡してくるだろうし。

「もしもし」

まあ何にせよ、声を聞けば全て分かることだ。
――そう思って応対したものの、残念ながら、この時点で俺の疑問が解消されることはなかった。

『……も、もしもし』

少し上擦った、今にも消え入りそうな声。まるで鈴を転がす様な、それでいて胸の奥の深い部分を激しく掻きむしるような、不思議な懐かしさ。

「あの、」
『…ひ、久しぶり』

どちらさまですか、と尋ねる前に、電話の向こうの彼女が口を開いた。

『苗字です。苗字名前。中学のとき、同じクラスだったんだけど』

苗字名前さん。
その名前には確かに聞き覚えがある。少ない情報を頼りに記憶を辿っていくと、ふと、頭を過ぎった光景があった。

『ご、ごめんね。もう忘れちゃってるよね。あんまり話したこともなかったし、』
「覚えてるよ」
『えっ』
「苗字さんでしょ」

中三の最後の席替えで隣になった女の子。クラス委員で、いつも明るく笑っている様なイメージだったけど、休み時間は女子と一緒にいて、男子と話すのはあまり得意じゃないみたいだった。だから彼女の言う通り、俺には苗字さんとこんなふうに会話をした覚えがほとんどない。(あ、でも)
一度だけ、授業中に落とした消しゴムを拾ってもらったことがある。おずおずと差し出されたそれを受け取りながら、ふと覗き見た彼女の数学のノート――その隅っこに、へろへろの筆跡で描かれたウサギの落書きがあって。

「で、どうしたの?」

可愛いな、って、思ったんだよなぁ。
『あっ、そ、そうだった』俺の問いかけにはっとした苗字さんが、慌てて次の言葉を探す。なんとなく、中学の紺色のブレザーを着たまま、顔の前でぱたぱたと手を動かす彼女の姿を想像した。

『もうすぐ夏休みも終わりだし、久しぶりにみんなで集まりたいね、って話になって』

みんな、という単語に、きしりと胸が軋む。
この場合の「みんな」とはつまり、中学時代の同級生たちみんなのことを指す訳だけど。夢ノ咲に入学してから今まで、俺は誰とも連絡を取っていない。
単純に日々が目まぐるしかったのもあるが、それ以上に怖かったのだ。何の根拠もなく世界が自分を中心に回っていたあの頃と、今とでは何もかもが違ってしまっていた。『アイドル』になって初めて、俺は、自分が思っていた以上に何の取り柄もない人間であることを知った。
もし、ここが夢ノ咲じゃなかったら。アイドル科、なんてけったいな場所でさえなかったら、こんな気持ちになることもなかったかもしれない。他の奴らと同じ様に、『普通の高校生』のままでいられたなら、もっと楽に生きられたのかもしれない。「みんな」と顔を合わせることは、そういう俺の後ろ向きな予感を裏付けてしまうような気がして嫌だった。

『よかったら来ませんか。高峯くんが来てくれたら、きっとみんな、嬉しいと思うし』

だから、ごめん。
そう言おうとしたのに。

「……いつ?」

口を開いたところで頭に浮かんだのは、なぜか否定の言葉ではなく、間の抜けたウサギの顔だった。

『今のところ、29日になりそうなんだけど』

廊下に貼られたカレンダーを確認する。件の日付にはお菓子のおまけでついてきたゆるキャラのシールがでかでかと貼られてはいるものの、ちょうど流星隊の活動もバスケ部の練習の予定もなかった。
『高峯くんが来てくれたら、きっとみんな、嬉しいと思うし』。

「分かった。…行くよ」

それって、苗字さんも?
そんなふうに聞こうとして、結局は唾を飲み込んだ。



☆ミ



当日、待ち合わせ場所として指定された駅前にはすでに数人が集まっていた。
集団の中の一人、サッカー部の坂井と目が合って軽く手を挙げれば、「おー、高峯じゃん!」と辺りから歓声が沸く。隅っこの方で何人かの女子と話していた苗字さんがこちらを振り向いて、一瞬ぎこちなく会釈をした。
見慣れた紺のブレザーとは違う、白いブラウスと水色のスカート。およそ半年ぶりに見た彼女は、卒業アルバムの写真よりも少しばかり髪が伸びていた。
俺もぺこりと会釈を返し、それ以降は当時クラスでもよくつるんでいた男子の集団に向き直る。髪を染めた奴、ピアスを開けた奴。みんな見た目に変化はあれど、雰囲気はさほど変わらない。

「なあ。母さんが言ってたんだけど、おまえ高校、夢ノ咲だってマジ?」

早速きたか。
重々覚悟してきたつもりだったけど、いざその話題になると、やっぱり気分は重くなる。
俄かにどよめく集団。「夢ノ咲って、あの有名な!?」そんなふうに驚いた声を上げる奴もいれば、「知ってる知ってる。アイドル科だろ」と乗っかってくる奴まで反応は様々だ。

「あー、うん。一応」

正直なところ、それがなんだ、って思う。
どこにいても、なにをしても、結局俺は俺でしかいられない。『普通の学校』に通う『普通の高校生』と、『俺』自身はなんにも変わらないのに。

「すっげー!ってことは、テレビに出てるあのアイドルも同じ校舎にいるんだよな?サインとかもらえたりするかな」
「んー……どうかな。そういうのは、ちょっと」

俺なんか、よく分からないまま、たまたま居合わせただけだ。目的もなく、ただ流されているだけ。それのどこがすごいって言うんだろう。
暑さのせいか、少し頭がくらくらしてきた。足の先から血の気が引いていって、お腹のあたりがぐるぐるする。それでも何ひとつ吐き出せない。「だけど、意外だよなぁ」

「高峯って中学ん時から背ぇ高かったし、女子にもモテたけど、そういうタイプじゃなかったじゃん」

坂井の印象は正しい、と思う。
昔から大勢の中でひとりだけ、文字通り頭ひとつ抜き出ていた俺は、それでも一生懸命、目立たないように身を縮めてきた。女子に告白された経験は何度かあったけど、しばらくすればそれもみんな「なんか、高峯くんってつまんないね」そう言いながら離れていった。
『アイドル』のための学校にいれば、毎日嫌でも思い知る。情けない、見かけ倒しの自分のこと。

「でもアイドルって、へらへら笑って手ぇ振ってるだけで、キャーキャー言ってもらえるんだろ?」

的はずれな物言いを責める気には到底なれない。
だってほんの少し前までは、俺も同じことを思っていたのだ。

「いいよなぁ、高峯は」

だけど、その瞬間。

ばちん!と大きな音がして、一瞬場が静まり返った。周りで思い思いに話していた他の奴らが、みんな俺の方を見ていた――正しくは、俺と坂井の間に割って入った、苗字さんを。

「ってぇ…何すんだよ!」

赤くなった頬を押さえる坂井、腕を振り下ろした体勢のまま坂井を睨みつけている彼女。苗字さんが坂井を殴った。状況は、火を見るよりも明らかだ。
自分より図体のでかい男に感情に任せて怒鳴りつけられても、彼女は何も言わなかった。瞳を潤ませてぶるぶると震えながら、それでもまっすぐに前だけを向いて。

「あーあー。やめとけって。…ほら苗字って、前から高峯のこと好きなのバレバレだったじゃん?」

見かねた周りがフォローを入れるが、それを聞いた途端、苗字さんがかあっと顔を赤くした。
長い睫毛が伏せられて、大きく見開いた目から、滴がこぼれそうになる。

「ッ、ごめん……!」

気付いた時には、俺は彼女の手を取って走り出していた。



☆ミ



一瞥もすることなく、ひたすら人混みの間を駆け抜けた。駅前から商店街にかけてようやく人通りが疎らになってきたところで、立ち止まって苗字さんを振り返る。
苦しそうに肩で息をしている彼女は、目を合わせるととうとう泣き出してしまった。

「っ、たかみねく…!」

その涙を拭おうと手を伸ばしかけて、ふと我に返る。いったい俺に何が出来るっていうんだ。

「ごめんね、私…こんなつもりじゃなかったの。せっかくの誕生日なのに…本当に、本当にごめんね」

どうして苗字さんが謝るのか。
適当に軽口で流せばよかったのに、曲がりなりにもアイドルのくせに、上手く笑うことが出来なかった。俺のせいで彼女に気を遣わせて、振り回して、挙句の果てにこうして連れ出してしまった。全部俺が悪い。苗字さんが謝る必要なんてない。

「知ってたんだ」
「…高峯くん、卒業文集に書いてたから、」
「そっちじゃなくて」

俺の、進路のこと。

「……この前たまたま、遊園地で、高峯くんが出てるショーを見たの」

遊園地での、ヒーローショウ。聞き覚えのある言葉になんだかひどくむず痒い気持ちになる。俺はこの先、どんなことがあったとしても、きっとあの日のステージを忘れないだろう。そんな記憶を、知らず知らずのうちに目の前の彼女は共有していたのだ。
ようやく少し落ち着いたらしく、乱れてしまった髪を直しながら、苗字さんがぽつぽつと話しだす。消えてしまいそうなそれを一言一句聞き逃すことのないように、俺は必死に耳を傾けた。

「びっくりしたけど、やっぱり高峯くんは格好良いなぁ、すごいなぁって思った。でも、ステージの上の高峯くんは…最初、あんまり楽しそうじゃなかったから。アイドルって大変なんだろうなって。私なんかが考えてるよりも、ずっとずっと、大変なんだろうなって」

大変だ。何が大変なのか分からないくらい、もう全部が初めてで、毎日のように自分の無力さを思い知らされて。誰にも認められないのが怖くて、だけどそのために一生懸命になることはもっと怖くて。

「でも、高峯くんは、最後までステージに立ってた。間違いなく、『ヒーロー』だったんだよ。…私、今まで見た中で、あの日の高峯くんが一番格好良かった。やっぱり、すごく、大好きだなぁって、思ったから」

彼女の話を聞きながら、俺は先程まで燻っていた胸のもやもやがすっかり晴れていることに気付いた。
乗り越えるにはまだ足りない。人間、そんなに急には変われない。だけど不思議と大丈夫な自分に驚いている。
それは多分、

「わたし、高峯くんをまもりたい」

怒るのも、泣くのも、全部目の前にいる女の子が俺の代わりにやってくれたからなんだろう。

「……ヒロインを守るのは、ヒーローの仕事でしょ」

もう一度手を伸ばして、今度はしっかりと、彼女の目から溢れる滴を拭う。
正義の味方、流星グリーン。恥ずかしい、馬鹿げてる、と潰されそうになりながら背負ったその名前を、いつか自分の誇りにしたいと思った。本当に、とっても、信じられないことだけど。

「だからさ、次はおれに頑張らせてよ」

16歳の抱負。
俺は、『ヒーロー』になりたかった。 
 
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