textbook | ナノ
 
懐かしい記憶。普段は頭の片隅に引っかかっているだけ、けれど時々ふと思い出しては、無性に微笑ましいような切ないような気持ちになる記憶がある。



「またずる休みするつもり?」

大学時代、授業の合間を縫って手伝わされていた、実家の花屋のカウンター。その裏でじっと体育座りをしている、黒い学生服姿の男の子。

「ずるじゃないし。……今日は、ちょっと、おなかがいたいから」

おとなりにある八百屋の息子、翠くんはそう言うと、今にも泣き出しそうな顔を俯かせた。
「そっか」柔らかい色合いの髪をくしゃりと撫でる。ご近所のよしみで小さいころからよく面倒を見ていたせいか、私は大概彼に対して甘い部分があった。
本当なら、叱り飛ばして無理にでも中学へ行かせるのが彼のためなのかもしれない。けれども、それは私の役割ではないように思えた。翠くんを叱咤し、励まし、導くのは、もっと彼の身近にいる人たちの仕事だ。ただの『隣の花屋のお姉さん』でしかない私に出来るのは、せめてこうして逃げ場所を作ってあげることくらい。

「…また、身長、のびてた」

成長期の身体を疎むようにきゅっと身を縮ませて、翠くんがぽつりと漏らす。

「きっと、みんな笑ってるんだ。翠はでかいくせに弱虫だな、って。おれは、べつに好きで大きくなったわけじゃないのに」

瑞々しいほどのコンプレックスに対して私が抱くのは、同情や共感ではなく、とうに失ってしまった青さへの単なる羨望に過ぎない。だけど今翠くんが立っているのは、かつて自分が歩んできたのと同じ道の上でもある。そう考えたら、無闇に諭したり理解を示すことは出来ないような気がした。
他人から、例えば二十歳の女子大生から見たらほんのちっぽけな悩みが、今の彼には世界のすべてなのだ。そういう感覚は、かつて私にも覚えがあった。

「翠くんは、好きな女の子とかいないの?」
「いないよ。いたって、どうせおれのことなんか」
「うそだあ。女の子はみんな背の高い男の子が好きでしょ。私、きみは中学でモッテモテなんだと思ってたよ」

卑屈な物言いから一転、きょとん、とした表情で首を傾げる。それからしばらく私の言葉の意味を咀嚼したあと、気がついたようにかあっと頬を赤くさせた。「そ、そんなことないし!」

「ラッキー。じゃあ、このままだーれもきみのかっこいいところを知らないうちに、翠くんが大人になったら、私が翠くんのお嫁さんになっちゃおうかな」

しおれてしまった彼の心を肯定感で満たすように、或いは恋愛小説に出てくる不敵な年上の女を気取って、深く考えもせず口にした台詞。
嘘を吐いたつもりもからかっているつもりもなかった。そう遠くない未来、彼はきっと、本当にすべての女の子の憧れになる。そうしたら私のことなんかすぐに忘れてしまうだろう。そんな、確信じみた予感があった。

「……名前ちゃんも、背の高い男の人が好き?」
「んー。それより私は、気位が高い人が好きかな」
「きぐらい…?」
「分からないなら、学校で教えてもらえばいいよ」

ふと思い立ってエプロンのポケットをごそごそと漁る。

「あげる。御守り」

いつだか福引きの景品でもらった、商店街のイメージキャラクターのマスコット。確か翠くんはこういうものが好きだったよなぁと、渡すつもりでずっと取っておいたのだ。
いびつな、それでいてどこか愛嬌があるデザインのマスコットを学生鞄につけてやる。すると彼は瞳を輝かせ、ふにゃふにゃとしあわせそうに笑った。

「おなか痛いの治った」
「ほんとに?大丈夫?」
「うん。…だから、名前ちゃん、いつかおれのお嫁さんになって」
「忘れなかったらね」
「指切りする?」
「いいよ」



約束ね。
あの時絡めた小指が今、こんなにも痛い。



☆ミ



それ以来、翠くんは毎日学校へ行くようになった。自然と顔を合わせることも少なくなり、いつだったか、あの有名な夢ノ咲学院のアイドル科に入学したという話をお客さん伝てに聞いた。大学卒業後、私は翠くんとはまったく似ても似つかない別の男の人と恋をして、実家を飛び出した。
私のほうは残念ながら失敗し、また懐かしの花屋に戻ってきてしまったのだけど、ここ最近翠くんを見かける場所といえば大抵雑誌の表紙やテレビの中だ。彼は夢を叶えた。そしてあの時の私が思ったとおり、遍くすべての女の子の憧れとして、今日も大衆へ笑顔を向けている。
記憶はやがて思い出に変わり、私の世界と翠くんの世界が交わることはもう二度とない。

――二度とないと思っていた。ついこの瞬間までは。

「お久しぶりです」

薄い唇が弧を描く。今朝出掛ける前にテレビのCMで見たのと同じ顔が、なぜか目の前にあった。

「何で、ここに、」

みどりくん。
自分の置かれた状況をひとつも飲み込めないまま、その名前を呼んだ。私の身体を壁に押しつけてこちらを覗き込んでくる彼は、もう自分の知っているおとなりの男の子ではないのだと思った。

「おばさんに挨拶したら普通に上げてくれましたよ。夕飯の買い物してくるって言ってたから、しばらくは帰ってこないと思うけど」

言葉で、身体で、じわじわと退路を断つように。

「……婚約。駄目になったって本当ですか?」

投げかけられた問いには、明らかな棘がある。
数年ぶりに再会を果たしたはずの赤の他人に、どうしてそんな話をされなければならないのだろう。彼は私をからかっているのか。そんな疑問が渦を巻いて、心に小さな傷をつけていく。

「うん。いいよ、笑いたかったら、笑ってくれて」

幸せになれると疑いもせず、親の反対を押し切って、家を出た結果がこれだ。信じて、騙されて、貯金も仕事もなくなって、結局ここに戻ってくるしかなかった。どこにでも転がっているありがちな悲劇。ばかみたいだと自分でも思う。

「……笑えるわけ、ないでしょ」

けれど、翠くんはそんな私の手を引いた。

「っ、ちょっと、みどりく、!」

まずい、と脳が警鐘を鳴らしたときにはもう遅い。
手首を強く掴まれ、唇が押し当てられる。抗議しようと開きかけた口に舌を捻じ込まれ、良いように弄ばれて、息継ぎも満足にさせてもらえない。ただ、目の前の『男』に対する恐怖と憤りだけが頭を支配していく。
私は必死に抵抗し、辛うじて自由になった右手で翠くんの頬を思いきり叩いた。

「こッ、の……くそがき、」
「名前ちゃんのうそつき」

思わず口をついて出た荒っぽい罵倒を悔やむよりも先、彼がぽつりと洩らした言葉に、はっとなって翠くんを見る。

「こんなことなら、最初っから、『こっち』貰っておけばよかった」

約束の隣、現在はもう空っぽになった左の薬指に、彼がそっと唇を寄せる。今にも泣き出してしまいそうなその顔に、どこか懐かしい既視感を覚えた。
これは私の知っている翠くんだ。
あの頃と同じ――私の、翠くん。

「……中古のおばさんなんか相手にしたって、何も良いことないよ」
「いいんです。あなたじゃないと、意味ないんです」
「また約束破るかも」
「そうしたらまた迎えに行くから大丈夫です」
「あっちが駄目になったから次はこっち、って、いくらなんでも都合が良すぎない?どんな女よ」
「どんな女だっていいです。おれが、あなたでないと駄目なんです。だから、」

だからおれにしてよ。
舌の上で転がした言い訳をすべて真っ向から打ち返され、唾を飲み込む。これが若さか。眩しすぎて眩暈がしそうだ。「名前ちゃん」

「おれは、格好良くなったでしょう?」

そう言って雑誌の表紙とは違う顔で笑った彼――あの日と同じ顔をして笑った彼が、箱の中、大切にしまっておいた記憶を呼び起こした。あのころよりいくらか背負うものの増えた、傷だらけの私の内で、それは確かにまだ光を放っている。
自分がこれからどうしたいのかさえ、今はまだ判然としない。頭の中がぐちゃぐちゃで、涙が溢れてとまらなかった。だけどひとつだけ確かなことがある。

「……最高に、格好良いよ」

健やかなる日も、病める日も。私がその小さな約束を忘れたことは、これまでに一度だってなかったのだ。 
 
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