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がしゃん、と音を立てて玄関の扉が開いたのは、日付が変わるほんの30分程前のこと。いつもの様に特盛の残業をこなした名前さんが帰ってきた。
「おかえりなさい」そう声をかけたところで聞こえていないのか、或いは最早返事をする気力さえ残っていないのか。何にせよひと言も発することなくまっすぐ寝室へと向かった彼女は、くたびれたスーツ姿のまま力なくベッドに倒れ込んだ。「ばたんきゅー」。効果音をつけるならまさにそんな感じ。

「ちょっと。名前さん」
「んん…あ、ただいま、みどりくん……」
「その格好のまま寝ないでくださいよ。スーツ皺んなるし、布団も汚れるし」

枕に顔を埋めながら無言で足をばたばたさせるのは、労わりや優しさなどとは程遠いこちらの物言いに対するささやかな反抗らしかった。
しばらく黙って様子を窺っていると、名前さんはだんだん俺の下腹あたりを蹴りつける方向へ行為をエスカレートさせていく。その足首をぐっと掴み、「ふぎゃっ」色気のない悲鳴が上がるのも聞かずスカートの中へ手を突っ込んだ。ストッキングを脱がす動作に合わせ、ふっくらした脚の上を肌色の布地がくるくる丸まっていくのが少しだけ楽しい。

「ごはんは」
「コンビニで買って軽く食べた」
「せめてお風呂入ってから休んでください」
「もう一歩も動けない……」

だっこ。寝返りを打って仰向けになった名前さんが、そう言ってこっちに手を伸ばす。

「じゃあいいです。おやすみなさい」
「やだ!」

ちょっと踵を返すふりをすれば、今度は上体を起こして両腕を腰に巻きつけてきた。
(さっきは動けないって言ってたくせに)まったく手のかかる。いつか俺に娘や息子が出来たら、毎日こんな感じなのかもしれない。――まあそんなこと心配するまでもなく、しばらくはこの人の世話を焼くだけでいっぱいいっぱいなんだろうけど。

「う、みどりくん…うぅ」

ずるずる、ずるずる、べしゃり。まとわり付かれた体勢のまま浴室へ向かおうとする俺に引きずられるような形で、彼女が床を這う。そんな姿を見ているうちになんだか気の毒になってきてしまって、結局その小さな身体を抱きかかえた。
名前さんが「もうだめ」って顔をして、みっともなく駄々をこねながら俺を頼ってくるこの瞬間が好きだ。「しょうがないですね」本当はそんなこと思っちゃいないのに、あくまでも彼女のためという大義名分を掲げつつ、名前さんを存分に甘やかして骨抜きに出来るこの瞬間が好きだ。
着きましたよ、そう告げる代わりにぽんぽんと頭を撫でてやれば、脱衣所の前で彼女が足を下ろす。緩慢な所作でブラウスのボタンを外していく様子を眺めながら、俺も部屋着のTシャツを捲った。

「え」
「どうかしましたか」
「いや、何。なんで翠くんまで脱いでるの」
「おれも風呂まだなんで」
「無理むりむりむり。一緒に入るとか絶対に無理」
「だって名前さん放っとくと湯船で寝てるじゃないですか。そのうち絶対溺れ死にますよ」

顔の前で大きくバツを作る名前さんの腕を掴み、無理矢理ブラウスの袖から引き抜く。「…処女かよ」真っ赤になって暴れる彼女のあまりの往生際の悪さにそう呟けば、結構な力で向脛を蹴られた。
とはいえ彼女の方も、己の不摂生については重々承知していたようで。明日も早くから仕事に行かなければならないことを考えると、ここで寝落ちしてしまうのはよろしくないと判断したのだろう。それ以上の反論を諦めて、しぶしぶブラジャーのホックに手をかける。

「……15分経ったらきて」
「別に、おれはそんな」
「私が気にするの!女子には色々確認とか準備とか、しなきゃならないことがたくさんあるんです!」

剣幕に圧されて脱衣所を追い出されるや否や、目の前でぴしゃりと引き戸が閉められた。
気づけば握り締めたまま、すっかり行き場をなくしてしまった名前さんの肌色ストッキングに視線を落とす。(……いいんだ)実のところほとんど駄目元くらいの提案だったのだが、彼女が納得したのならそれはそれで役得というか、棚ぼたというか。

――とにもかくにも、今宵は一緒にお風呂である。



☆ミ



――どういうわけか、今宵は一緒にお風呂である。

超特急でありとあらゆる部位の入念な無駄毛チェックを終え、乳白色のお湯が揺蕩う湯船へ身を沈める。それとちょうどタイミングを同じくして、「もう入ってもいいですか」と翠くんが浴室のドアをノックした。

「……どうぞ」

失礼します…なんて恭しくお辞儀しているところ悪いけれど、翠くん、あなた素っ裸ですよ。
思わずきゅっと身を縮ませた私にふにゃふにゃと蕩けた笑顔を向けたあと、彼は別段恥じらう様子もなくいつも通りにシャワーを浴び始めた。
状況に対し、いまだ理解は追いついていない。「一緒にお風呂に入りましょう」なんて、私はもちろん翠くんだって普段なら絶対提案したりしないはず。
だからこそ、彼のこんな無防備な姿を見るのは今日が初めての経験だった。目の前にいるのが例えどんなイケメンであろうが、全裸で髪の毛を泡だらけにしている様はなかなかのマヌケである。
(…しかしまぁ)いい身体だなぁ。さすがは芸能人というか、細いけど決して貧相な感じじゃないし、引き締まった筋肉のラインがいちいち綺麗で憎たらしい。最近輪をかけてぷにぷにしてきた己の脇腹を摘みながら、ついつい溜息がこぼれた。

「なに見てるんすか」
「へ?」

気づけばシャンプーを流し終えた翠くんが、訝しげな顔でこちらを覗き込んでいる。
いや、別に、ちょっと自分の身体の弛みっぷりに落胆してただけだし。痴女じゃあるまいし、私はそんな、やましい気持ちがあって彼氏の裸体を延々と見つめていたわけではない。

「……名前さんのエッチ」
「な、〜〜ッ!」

痴女ではないと言うに!
抗議の代わりに手のひらで勢いよく水面を叩くと、ばしゃんと音を立てて水飛沫が上がった。
――でも、さっきの恥ずかしそうな顔はちょっと、可愛かったかもしれない。(なんというか、むらっ、と、きた)いや痴女じゃん、私。



「はぁー……」

恍惚と息を吐きながら翠くんが身を沈めるのにしたがって、結構な量のお湯が湯船から溢れる。もったいないなぁと排水溝に吸い込まれていく様子を眺めながら、額に浮かんだ汗を拭った。
翠くんと二人、浴槽に背中をつけたまま三角座りの状態で向かい合う。少し身じろぎをしただけで、膝と膝が触れてしまいそうな距離感。

「せ、せま」
「こっち来ます?そしたら足伸ばせるし」

ほら、と両手を広げる彼に促されるまま身体を反転させ、翠くんの足のあいだにすっぽりと収まる。「うひゃ」改めて体格差を実感しているうちに気づけば後ろから伸びてきた腕がお腹のあたりに回されて、くすぐったさに声が出た。

「名前さん、ちょっと痩せました?」
「おい、今どこで測った」

どさくさに紛れて胸元へ伸ばされた手。しかし背後から抱きしめられていてはろくな抵抗も出来ず、せめてもの報復にほっそりした二の腕に歯を立てる。

「いたっ…ちょっと、ごはんもう済ませてきたんじゃなかったんですか」
「翠くんは別腹なの」
「ふは。なんすか、それ」

笑いながら、翠くんの指先が私の頬に張り付いた髪をそっとかき分けた。そうして露わになった耳元へ唇を寄せ、お返しとばかりにがぶりと噛み付く。
何度か繰り返し食んでいるうち、与えられる刺激は次第に甘くなってゆく。わざとらしく吐息を洩らしつつ内側を舌でなぞられて、びくびくと肩が震えた。

「っ、こら、やめなさい」

単純に長いこと湯船に浸かりすぎたせいもあったのだろう。頭に血が上ってしまい、力が入らない。
くたりと翠くんの肩にもたれながら恨めしげな視線を送ると、さっきまで嬉々として私をからかっていたはずの彼はなぜかばつが悪そうに顔を背けた。

「なに、どしたの」
「……ちょっと守沢先輩のこと思い出してて」
「は?」
「いや、そういう意味じゃなくて」

たたないように、必死で。
その言葉の意味を理解するのにしばらくかかった。

「……翠くんはアホなの?」

思えば学生の頃から二人でいても何かと守沢先輩の話題ばかり口にしていた彼だけれど、よもや恋人との憩いのバスタイムにさえ思いを馳せてしまうほどの入れ込みようとは。私というものがありながら!なんて、一瞬でも憤慨した自分が馬鹿みたいだ。
言われてみれば確かに、さっきからずっと背中に当たっていたそれがどことなく芯を持ちつつあるような気がする。意識した途端むず痒くなってしまいもぞもぞとお尻を動かすと、突然の刺激に驚いた翠くんが小さく悲鳴を上げた。「ひっ、」

「ふは。ひい、って」
「ッ勘弁してくださいよ、もう……」

崩れ落ちるように私の肩へ顔を埋め、耳まで真っ赤にしながらあーとかうーとか言っている。しかし自らが作り出した状況に追い詰められていることの是非はともかく、お互い裸で引っ付いているこんな体勢でも無理矢理手篭めにしようとはしてこないあたり、彼も大概人が好い。

「…名前さん、」
「ん?」
「えっちしたい……」

縋るような呟きを拒絶する代わりに、濡れて一回り小さくなったその頭をくしゃくしゃと掻き混ぜる。
翠くんのおねだりがあまりにも可愛かったから、いつの間にか仕事の疲れはどこかへ吹っ飛んでいた。とはいえ明日のことを考えたら、さすがにお願いを叶えてあげるわけにもいかない。
肩口へおでこをぐりぐりと擦り付けながらぐずる年下の恋人。いつもこれくらいしおらしければいいのになぁ、とこっそりほくそ笑んでいると、唐突に彼が私の手首を掴んだ。

「次の休み」

青い瞳に射抜かれて、のぼせていたはずの背筋が氷る。

「ひんひん言うまで抱き潰すんで、覚悟しといてくださいね」

――金曜日、絶対定時で帰らないとだなぁ。 
 
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