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夜の海って気味が悪くて私は嫌いだ。
この季節の潮風は、風呂上がりに半袖の体操服一枚で受け止めるにはまだ少し肌寒い。なにもこんな中途半端な時期にわざわざ海水浴場の近くで合宿することないのに。上に何か羽織ってくればよかったなぁ。重たい足取りを励ますようにわざとざくざく砂を蹴りあげながら、そんなことを考える。

「高峯のやつがまだ部屋に戻って来ていないんだ。苗字、何か知らないか?」

守沢先輩がそう言った瞬間咄嗟に、聞かなければよかった、と思った。何故か。答えは単純――思い当たる節があったからである。
つい昨日までただの後輩としか思っていなかった男の子に「好きです」なんて告白を受けたところで、突然気の利いた返事が降って湧く筈もない。私だって高峯くんのことは好きだけど、じゃあお付き合いしましょうとなるとそれはまた全く別の話だった。正直考えたこともなかったし、何なら未だに理解の範疇を超えている。恋人同士。私と高峯くんが。いやいやいや、「ありえないでしょ」……。
さすがに言いすぎたというか、言葉が足りなかった自覚はある。だけど事実だ。背の高い歳下のイケメンは今をときめく高校生アイドルで、片や私はプロデューサーという肩書きを偶然手にしただけの至って平凡な女。愛だの恋だの、そんなのあまりに荷が重すぎる。
「そうですか」頭をよぎるのはどうにか喉の奥から言葉を絞り出したときの彼、その顔の悲しそうなこと。思わず、自分の頬を平手で打ちたくなったくらいだ。
いくら常日頃鬱だ死にたいと口にして憚らない高峯くんであっても、まさかふられたくらいで海へ身を投げたりはしないだろう。分かってはいてもなんだかいやに後ろめたくて、結局こうして探しに来てしまう。失恋した相手の顔なんてもう見たくないかもしれないが、それでも、私が迎えにきたと言えば彼は戻ってくれるんじゃないか、なんて

(自惚れるのも大概にしろ)

おめでたい頭を突然後ろから殴りつける、嫌な予感に身を震わせた。



――目に入ったのは波打ち際、綺麗に揃った彼の靴。



「た、かみね、くん、?」

呼んだ名前は掠れてほとんど声にならない。
ただ泳がせた視線の先、暗い暗い海の中、月の明かりに照らされてぼんやりと浮かんでいるのは、間違いなく彼の姿だった。
(なんで)眼前に広がる光景を認めてしまったが最後、ゆっくりと鉛のような絶望が落ちてくる。頭が、心臓が、働くことを拒絶する。足の先から血の気が引いていって、呼吸の仕方さえ今はもう思い出せなかった。いっそ崩れ落ちてしまえたなら楽だったのかもしれない。けれど現実は、押し寄せてくる暗闇から顔を背けることさえ許されず、ひたすらにその場へ立ち尽くしているだけだ。
ぎこちない素振りでこちらを振り返った、高峯くんと目が合う。(だめだよ)そんなところにいたら、あぶないよ。そう言いたいのに声が出ない。代わりに震える指先を必死で伸ばしてはみたけれど、彼は腰のあたりまですっかり海水に浸かったまま、じっとそこから動こうとしなかった。

「ね、たかみねくんってば」

とにかく何か言わないと。でも何を?考えろ。考えろ考えろ考えろ。早く。

(動け、私の身体)

でないと彼がどこかへいってしまう。



☆ミ



別に死ぬつもりなんてなかった。
ふられたのはもちろん悲しかったし、悔しかったし、恥ずかしかったけど。もしもこのまま俺が死んだら先輩は…あのちょっと抜けてて自己評価が低くてお人好しな苗字名前先輩は、きっと気に病むだろうと思ったのだ。あのひとの顔から笑顔が消えることは多分、おれにとって、死ぬよりもずっと怖いことだと思ったのだ。

違和感に気づいたのは数時間前。お守り代わりにポケットに入れて持ち歩いていたゆるキャラのマスコットが消えていた。苗字先輩が俺のために、プロデューサーの仕事の合間を縫って手作りしてくれたマスコット。
もしかしたら基礎トレの最中、砂浜で落としたのかもしれない。そう一人でこっそり合宿所を抜け出したのは別に誰に言うほどのことでもないと判断したからだし、正直なところ少しだけ、責任を感じた先輩が心配して迎えに来てくれたらいいな、なんて浅はかな期待が頭をよぎったせいだ。
結局日が落ちるまで探し物は見当たらず、心なしか気分まで沈んでくる。
波に攫われた可能性を考えて、少しだけ躊躇ったあと、それでも結局は水中へ足を踏み入れた。ひんやりした砂へ沈み込む感覚に誘われるように、一歩、また一歩と進んでいく。海の底は暗く深く、覗き込んだところで何ひとつ見出すことができない。
これまでずっと、大事に大事に守り育んできた俺の恋心。ふられてしまった今そんなものに何の意味があるのか、と思わなくはない。
(何も見えない)俺はあのひとに導かれてここまで来たから。ひとりではもうどこにも行けない。自分に出来る範囲で毎日少しずつ「頑張る」を積み重ねることとか、そうやって最後まで何かをやり通すのが存外気持ちいいってこと。苗字先輩が俺に向かって笑いかけてくれる日々を、幸せだなあって思える気持ち。(何も、見えないです、先輩)
全部、どこかになくしてしまった。

「た、かみね、くん、?」

――飲み込まれる、と思った瞬間、ぽっと光が灯った。彼女が俺の名前を呼んだ。
振り返った先の砂浜は思ったよりもずっと遠くて、無意識のうちに随分と深いところまで来てしまっていたらしい。認識した途端、恐怖で身体が竦んだ。揺らめく水面が自分を縛り付け、今にも底へ引きずり込んでしまいそうな感覚。
俺、さっきまでどうやって歩いてたっけ。どういうふうに、喋ってたんだっけ。頭の中が真っ白で、今にも泣きだしそうな顔をしながらこっちへ手を伸ばしてくる先輩の呼びかけに答えることも出来ない。
(せんぱい、たすけて)言いたいのに、言えない。口に出してしまえばきっと、苗字先輩は俺の望んだ通りに動いてくれる。だけどそれじゃ意味がない。尊い彼女の優しさは、到底こんな、脅迫じみた我儘によってもたらされていいものじゃないから。こんな形で手に入れたいと、思っていたわけじゃないから。
もう諦めよう。このまま流されて、沈んで、泡になって、全部なかったことにしよう。



「翠くん!!!!!!」



そう、思ったのに。
縋りつくみたいに、叫んだ。苗字先輩は着ていた体操服を勢いよく捲り上げるとそのまま、なりふり構わず脱ぎ捨てたそれを砂浜へと叩きつける。

「お…おっぱい!!揉んでいいから!!は、早く、こっち、来なさい!!!!!!」

思わず耳を疑った。それから、今目の前に広がっているこの光景を。
月の光に照らされた彼女の白い身体。頼りない面積の布地一枚に守られた、先輩のおっぱい。(おっぱい)――先輩の、おっぱい。

「………………はい」

間の抜けた返事は正真正銘自分の喉から発されたもので、気づいたら身体の震えはすっかり止まっていた。
ぎくしゃくと足を交互に動かして、波をかき分けて。水を吸って重たくなった洋服の裾を引きずりながら、上半身裸のまま恥ずかしそうに震えている苗字先輩に駆け寄っていく。

「た、高峯く、」
「先輩。これ着てください」

着ていたカーディガンを脱いで、そっと彼女の肩にかけた。申し訳程度にしかならないけど、それでもさっきまでの格好よりは幾らかマシなはずだ。
砂まみれになってしまった先輩の体操服を拾い上げる。その途端、彼女がへなへなと地面に座りこんだ。

「大丈夫ですか」
「安心したら腰抜けた……立てない」

高峯くんのあほ。そう言ってこちらを見上げてくる視線を、まっすぐに受け止める。ああ、ばかだなぁ。(なんで、このひとは)
俺なんかのために、こんなに一生懸命になっちゃうんだろう。
伸ばされた手、さっきは届かなかった手を、今度はしっかりと握り返した。そのまま小さな身体をひょいと抱きかかえれば、彼女は特に抵抗することもなく俺の首に腕を回す。

「あ、そういえば、これ」

そう言って差し出されたのは事の発端、探し求めていたゆるキャラのマスコットだった。

「脱衣所に落ちてたって。守沢先輩に渡しといてくれって頼まれたの。…だから、はい」

(……なんだ)

こんなところにあったのか。
近くにありすぎて見えないなんて日常生活じゃままあることだ。これまでずっと、大事に大事に守り育んできた俺の恋心。砕けて散って、ばらばらになってしまった恋心。だけど自惚れでなければ多分、彼女はとっくに、その欠片を余さず拾い上げてくれていたのだ。

「高峯くん」
「何ですか」
「さ、さっき言ったのは、その」
「…分かってますよ」
「へっ」
「おれ、ちゃんと『待て』出来る子なんで」
「…あ、そう」

大丈夫。今は、それだけ知っていればいい。
 
 
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