textbook | ナノ
 
「おはよう翠くん!」

朝一番。無遠慮に伸びてきた手首を掴めば「ぎゃっ」と間抜けな悲鳴と共に、彼女が顔を歪めた。もの言いたげな表情に、俺は敢えて気が付かないふりをする。

「おはよう苗字さん。今日はどうしたの」
「雑誌で読んだんだけどね」
「は?」

こんな突拍子のない発言にも慣れたものだ。とはいえまったく日本語の通じない相手でもないことはこれまでの付き合いで(悲しいかな)分かってしまっているので、仕方なく彼女が続きを話し出すのを待った。

「背の高い男の子は、異性から頭を撫でられるのに弱いらしい!」
「…へえ」

がくり、と全身を脱力感に襲われる。
お約束のパターンで、どうせろくでもないことだろうと踏んではいたけれど。正直、ここまでどうでもいい情報を伝えるためにわざわざアイドル科までやって来るとは思っていなかった。一瞬でも耳を傾けたのを後悔するレベルだ。
しかし、溜め息を吐く俺に構わず掴まれたままの手で必死に抗おうとしてくる彼女の目は、至って真剣な光を宿している。
――俺はこの目が苦手だった。

「……撫でさせろ」
「いやだ」
「撫でさせろー!って、う、わ、っ」

掴んだ腕に力を込めて上方向に引っ張れば、苗字さんの爪先が僅かに宙へ浮く。
いとも容易く俺の思い通りになってしまう小さな身体。身体だけなら簡単だ。
いきなり自由を奪われた彼女が、みーみーと喚きながら手足をでたらめに動かして暴れる。とはいえ、その程度の抵抗じゃ俺の大きな図体はびくともしないわけだけど。
(…あー、)いい加減に懲りればいいのに。

「はーなーしーてー」
「ばかだよね、苗字さんって」

彼女も、俺も。



☆ミ



「はあ。鬱だ」

AV室。流星隊はこれから定期ミーティングの予定だが、いつものように行方不明の深海先輩を守沢先輩が探しに行ってしまったので、俺たち一年生三人は特にすることもないままその場に取り残されている。
そんな中、おでこをべったり机にくっつけて心にもないことをぼやいていると、鉄虎くんに後ろから肩を叩かれた。

「まーた名前ちゃんと遊んでたんスか?」
「遊んでないし…」
「毎日毎日よく飽きないッスよね〜」

所詮他人事というか、鉄虎くんの口調は暢気なものだった。
――平凡な俺の平凡でちょっと憂鬱な日常に、『彼女』の存在が割り込んできたのがいつのことだったか、今となっては上手く思い出せない。

「ホントだよ……。少しは付き合わされるこっちの身にもなって欲しいんだけど」

最初は単なるファンの子のうちの一人だと思っていた。けど、ちょっと違うなと最近は思い始めた。だって彼女ときたら、何度俺がそっけない態度を取っても一方的に付きまとってくるのだ。しかもそのたびに今朝みたくおかしなことばっかり言い出すし、ちょっと気まぐれで構ってあげようかと思ったときにはふらふらいなくなってるし。
天災みたいにいきなり目の前に現れたくせに。なんで、俺が振り回されなくちゃいけないんだろう。
落ち込む俺を尻目に、「いいじゃないスか」と鉄虎くんが笑う。

「名前ちゃん可愛いし」
「……は?」

思わず、耳を疑った。

「可愛い?誰が?」

咄嗟に飛び出た声が、自分の想像を遥かに超えて低かったことに驚く。振り返ってみれば鉄虎くんの方も、予想だにしなかった俺の反応に目を丸くしていた。

「や、可愛いじゃないスか名前ちゃん。なんか、飼い主に構ってもらおうと必死に尻尾振ってる犬みたいで」
「犬」

何気にひどいよね、鉄虎くん。
とはいえあっけらかんとした口調から察するに、そこには本当に言葉以上の意味はないのだろう。そう思って、とりあえずはほっと胸を撫で下ろした。(いやいやいや)なんでほっとしてんだよ。鬱だ。

「むっ!?先程からしきりに話題に上がっている名前殿とは、もしや翠くんのファンの子でござるか?」
「いや、ファンっていうか…ストーカーっていうか、変に懐かれちゃった近所の野良猫というか」

聞き慣れない名前に興味をそそられたのか、ついさっきまで部屋の片隅でゴム製手裏剣のメンテナンスをしていたはずの仙石くんも会話に加わった。
驚いたことに、仙石くんはまだ彼女にエンカウントした経験がないらしい。まあ、普通科の校舎から毎回椚先生の目をくぐってこっそり潜り込んでいるようだし、クラスが離れていればそんなものなのかもしれない。

「犬なのに、猫とは……?不思議なお人でござるなー!拙者、ちょっぴり会ってみたい」
「いいよ、別に会わなくて…」

いつだったか、知らない間に苗字さんと鉄虎くんが連絡先を交換していて驚いた覚えがある。因みに、俺は彼女の電話番号もメールアドレスも何も知らない。
「翠くんのことで色々相談を受けてるんスよ!」なんて鉄虎くんは笑っていたが、苗字さんのことだ。出会ってしまったら最後、仙石くんまで俺たちのばかげたあれこれに巻き込むのは目に見えている。(っていうか、俺について何か気になることがあるんなら、俺に直接聞けばいいじゃないか)

「翠くんは、名前殿のことが嫌いなのでござるか?」

核心を突かれて、言葉に詰まった。
思いがけず口調を厳しくしすぎた自覚はある。芽生えた気持ちにどうにも上手く素直になれない自分がいるのも、ちゃんと分かっている。けど、そんな風に聞かれてしまったら俺に残された答えはひとつしかないのだ。誠に遺憾ながら。

「……嫌いだなんて、言ってないじゃん」

ばしん!と勢いよく鉄虎くんが俺の背中を叩いた。仙石くんはなんだかそわそわしてるし、二人して口元がニヤニヤしてるの全然隠す気ないし。(…あー、)
俺はいつも自分のことで手一杯だから、大事な子が出来たって、ちゃんと気遣ってあげられる余裕なんかきっとない。毎日のメールとか週一でデートとか、記念日とかイベントとかそういうのも全部、死ぬほど面倒くさいって思うから、たぶん俺と付き合ったところであの子は幸せにはなれない。今ぐらいの距離感が、お互いにとって一番いい。
そう、頭じゃ分かっているのに。

「そういうわけだから、手ぇ出さないでね、二人とも」

なんでこんなこと言っちゃうんだろう。

「やっと認めたと思ったらいきなり強気ッスね!?」
「合点!拙者と鉄虎くんで、翠くんの恋を誠心誠意、応援するでござるよ!」

なんで、好きになんかなっちゃったんだろう。

(鬱だ)



☆ミ



結局徒らに時間を浪費するだけとなってしまったミーティングを終え、一人帰路に着く。
そうか、俺は苗字さんのことが好きだったのか。以前から薄々…と言わずはっきりと自覚していたことではあったけれども、いざ公言してしまうとなんだか退路を絶たれたような感じがして気が滅入る。
(いや、でも別に、告白されたってわけじゃないんだし)向こうから動きがない以上、俺は今まで通りに接していればいい。

「…それでね、鉄虎くん」
「!?」

ぼんやりそんなことを考えていた矢先、角を曲がった向こうから当の本人の話し声が聞こえてきて、思わず足を止めた。この先は確か生徒会長御用達のガーデンテラスだ。そんな場所にまで潜り込んでるのか。この学校の警備係はいったい毎日何をやってるんだろう。
会話を聞くに、彼女はどうやら鉄虎くんと話しているらしかった。とはいえ鉄虎くんはさっきまで俺と一緒にAV室にいたわけだし、きっと電話でもしているんだろうけど。

「翠くんは、多分私なんか興味ないんだよ」

力なくこぼされた呟きに含まれていた俺の名前。どきりとして、身体が強張る。
もしかして、これが鉄虎くんの言っていた「相談」ってやつなんだろうか。黙って素通りすればいいものを、自分の話題を出されてしまっては気になってなかなかそうもいかない。盗み聞きをしているみたいで、なんだか胸のあたりがそわそわする。

「……もう諦めようかなぁ」

(は?)そう続いた言葉に、自分の頭がふつふつ煮えていくのを感じた。
何言ってんだ。毎日毎日あれだけ付きまとってきて、俺のことを振り回しておいて。俺がいつもどんな気持ちでいるかも知らないで。自己中心的にも程があるだろ。そもそも俺、まだ苗字さんに「好き」とか言われてないし。なんなんだよ、「好き」って言ってくれなくちゃ、こっちだって「俺も」なんて言ってあげられないじゃないか。
勝手に現れて、勝手に俺の生活に割り込んできたくせに。どうしてきみが「諦める」なんて言うんだ。ばかやろう。(……違うか)



――馬鹿は、俺だ。



「諦めちゃうんだ?」

一歩踏み出して、その角を曲がる。するとカフェテラスのいちばん隅っこの席に座っていた苗字さんが、すぐ勢いよくこちらを振り向いた。

「え、な、翠くん、なんで」

慌てた彼女の指先が、おそらくほとんど無意識のうちに鉄虎くんとの通話を切る。それをしっかりと確認したあと、俯いてしまった顔を覗き込むように、苗字さんの膝のあたりへしゃがみ込んだ。

「本当に?」
「や、その…だ、だって」

目が合う度に逸らされる視線を追いかけた。
本当はずるいことだと分かっている。此の期に及んでこんなふうに彼女から差し出されるのを待つなんて、我ながら心底情けないやつだと思う。それでも。

「……そっか」

俺がそういう自分のことをちょっとでも好きになるためには、やっぱり、彼女から愛してもらわなくちゃ駄目だから。
ねだるように、頭を垂れた。

「み、翠くん。どしたの」
「いいよ。頭、撫でても」

おれ、今ちょっと鬱だから。

「だから、おれのこと好きなの、やめないでよ」

こぼれそうなほど大きく、苗字さんが目を見開く。それから躊躇いがちに俺の方へ手を伸ばして、震える指先を髪へ差し入れて、やがてゆっくりと触れた。



「ねえ、翠くん」
「ん」
「あの雑誌間違ってるよ」

撫でられてる翠くんより、撫でてる私の方が絶対どきどきしてるもん。
至って真剣な眼差しでそんなことを言う。本当はずっと、彼女のこの目が好きだった。

「……ほんとに、ばかだよね」

とっくにこっちは白旗を振ってるっていうのに。
とはいえ俺ばっかり振り回されっぱなしなのもなんだか癪だから、その件についてはこれからゆっくり時間をかけて教えてあげることにしよう。 
 
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