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Trickstarのユニット練習を終え、なんとなしに開いたスケジュール帳の午後の予定が空白だった。ならばこの隙に、と作りかけのまま長らく放置していた衣装と借り物の裁縫道具を携え、人気のない廊下をぼんやりと歩く。そうして辿り着いた先が空手部の道場であったことに、たいした理由はなかった。どうせ家に帰ったところで他にやることもないのだし、何かと誘惑の多い自宅より学校で作業をした方が捗るだろう。そう、思っただけで。
ほとんど無意識のうちに、まるで呼吸でもするかのようにその敷居を跨いでいた。なるべく陽当たりのいい場所を選んで壁にもたれかかり、そのままひんやりとした畳の上に座り込む。
(……足りない)そう思いながら広げた大きな衣装は、奇しくも『彼』のものだった。

――欲しいものがあるんです。

そう言えば、大抵の場合、あの人は私の願いを叶えてくれる。花壇に咲いた花を見て「綺麗ですね」と呟けばハンカチにお揃いの刺繍を施してくれたし、鉄虎くんのお弁当を羨ましげに眺めていたその翌日には何も言わずとも私の分のお昼御飯まで用意してくれるようになった。
ただ、一番欲しいものだけが、いつまで経っても手に入らない。
虐げるためでなく、ただ慈しむためだけの大きな掌が、私の頭を優しく撫でる場面を想像する。丁寧に髪を梳かれるたびに胸中で弾ける萌えた緑と汗の匂いに目を細め、その隙間から、いっそ野卑なほど精悍な顔立ちを堪能する。
例えばそんな、些細なこと。

「よう。空いてるか」

白昼夢を遮ったのは、さっきまで頭の中で幾度も反芻していた『彼』の声だった。

「こんにちは、鬼龍先輩」

見渡さずとも場所なら幾らでもあると言うのに、彼はわざわざ尋ねた。だから私はごく自然な体を装って、自分の隣へ座るよう鬼龍先輩を促す。見ればその手には私と同じく、布の類が山程抱えられていた。

「休みの日までご苦労だな」
「先輩こそ、今日は妹さんのお手伝いをするんだって張り切ってたじゃないですか」

妹が友達と家でお菓子作りするなんて言いやがるからよ、危ないことしないように見張ってなきゃいけねえんだ。
そう困ったように、それでも嬉しそうに話す彼の顔を見たのは、つい先日のこと。

「それが…どうも顔のせいか、俺がいると友達が怯えちまうってんでな。追い出されたんだよ、今は親父が付いてるはずだ」

小さく肩を竦めた後、気を取り直すように裁縫箱を開ける。糸の先を軽く口に咥えて、それからするりと器用に針穴へ通す。鬼龍先輩の所作は綺麗だ。とても、綺麗だ。

「……あんまり、見てるんじゃねえよ」

こちらの視線に気が付いたらしい、いかにもばつの悪そうな声にはっとする。慌てて姿勢を正すと、「いや、別に怒ってるわけじゃねえんだが」そう言って眉を下げて笑った。
(いいな)そういう顔、もっと見たいな。……なんて、口に出せる筈もないけれど。

「怒ってるとか、思ってないですよ」
「そうか」
「どうして誤解されちゃうんでしょうね。…鬼龍先輩はこんなに優しい人なのに」

こんなに優しくて、弱虫な人なのに。
ふと思い立ち、針が刺さったままの衣装を一度膝に置いて裁縫箱の引き出しの中身を探る。後で何かに使えるかもしれない、と取っておいた布の切れ端の中から、天鵞絨の紅を選んで引っ張り出した。
両端を丸めて、中心で軽く止める。そうして即席で作ったリボンを、傾がった彼の頭にそっと当てがった。

「…っ、ふふ」

『男性』として整い過ぎた鬼龍先輩の顔立ちと可憐な少女のための装飾があまりにもアンバランスで、思わず笑みがこぼれる。たとえばいつもの見た目がこれくらい間抜けで可愛らしかったなら、妹御の友人も、彼を恐れて泣くことはなかったかもしれない。
『女』で『後輩』という自分の立場と先輩の甘さを盾に取り、歳上の異性に対するには些か失礼過ぎるその行為を更に続けようと身を乗り出す。

「なーに笑ってんだ。このやろう」

そんな矢先、唐突に彼が私の手首を掴んだ。
僅かに拗ねたような口調、分かりづらく赤らんだ顔、掌から伝わってくる熱。
これじゃまるで恋人同士の距離感だと、言わなければ気付かないほどこの人はきっと鈍くない。どくん、どくんと心臓がその動きを速める。息が上がる。

「……俺には、似合わねえだろうが」

それでも、肝心な言葉は何ひとつくれない。
いつもそうだ。私が腹の底で燻らせて燻らせて燻らせた思いをようやく渡そうと手を伸ばしかけたとき、敏い彼はそれに気付いてすぐに一歩後退る。愛だの恋だの、そんなものさえなければ普通に話せるのに。(どうして、それじゃ駄目なの)

「こういう可愛らしいモンはよう。もっと…嬢ちゃんみてえな、」

私の一番欲しいもの。

「なら、早く誑かされてくれませんか」

もう一歩身を乗り出すと、慄いた先輩が壁に背をもたれた。更に退路を絶つように頭の横へ手を付いて表情を窺えば、彼の瞳の奥に今にも泣き出しそうな自分の顔があった。
奪ってしまいたかった。だって、その気になれば私の身体を押し返すことなんてまばたきするより簡単なくせに、彼はそうしないのだ。
その優しさも、弱さも、ずるささえも逆手に取って、この人の全部を手に入れたかった。だってそうでなきゃ釣り合わないでしょう。

「…ああ。もう、」

『私』なんか、とっくに残らず奪われているのに。

「敵わねえよなあ」

名前、と名前を呼ばれる。耳慣れない響きに気を取られているうちに背中へ腕を回され、鬼龍先輩が私の耳元に唇を寄せた。

「……今日のところは、これで勘弁してくれねえか」

甘い強請がゆっくりと全身を満たしていく。
そのとき私は、彼のからだでいちばんやわらかい部分へ確かに触れたのだ。
 
 
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