textbook | ナノ
ずっと遠くに行きたかった。行き先はどこでもよかった。ただ、誰も私のことを知らないところ。背負った荷物を捨て、絡まった糸を切って、まっさらな『私』を始められるならそれでよかった。そのために、歩いていた。
音楽は世界。音楽は呼吸。たったひとつだけ、私を生きたままこの世とは違う場所へ連れていってくれるもの。小説だって映画だってよかったのかもしれないけど。私が選んだのは音であり、言葉であり、歌だった。
導かれるようにたどり着いたステージの上はきらめきで溢れていた。スポットライトを浴びる彼らも、それを見つめる観衆も、全ての顔に等しく笑顔が浮かんでいた。
「名前先輩?」
ただ、彼と私の二人をのぞいて。
「ごめん。ちょっと、考えごと」
思っていたよりも長い時間思考を飛ばしていたようで、訝しげにこちらを覗き込む翠くんに慌てて断りを入れる。
「当てましょうか」レッスン室の床にべったりと背中をつける私の横へ同じように寝転びながら、彼はそう言って小さくはにかんだ。
「おれのこと」
「……当たり」
スポットライトの下、一際目を引く男の子。
丸めた背中に壊れそうな心を隠して、言葉にならない恐怖に足を震わせて。それでも『高峯翠』は立っていた。確かに、そこに立っていた。
「翠くんと初めて会った時のこと考えてた」
目を逸らせなかった。そうしなければ、いつか彼は崩れ落ちてしまうんじゃないかと思った。(あの子が最後まで歌い切れますように)私は私のために在るはずだった音楽のそばで、初めて、誰かのために祈ったのだ。
びりびりと肌を叩く緊張感が、曲の終わりが近付いていることを知らせる。その一瞬。
彼の中の「俺なんか」が、「俺だって」に変わった瞬間を、私は見た。
――心が、震えた。
どうやって逃げようかとばかり考えていた私の目の前で、翠くんは立ち向かっていた。自分を取り巻く全て――そして何よりも自分自身を呪いながら、それでもなお頼りない歌で、おぼつかないダンスで。
「このやろう!」って、叫んでいたから。
「…なかないで」
長い指先が頬に触れたことで漸く、私は自分の目から溢れた滴に気付く。
結局、『私』はあの頃から何ひとつ変われていない。ぐちゃぐちゃに塗り潰されたまま、今も残った白い部分を必死で探している。
「おれは、『今のあなた』がこうしておれの隣にいることが、うれしいんです」
それでも間違いではなかったと、誇れる自分でいたいのだ。逃げるための居場所ではなく、『彼』に向かって歩けたこと。
「名前先輩」
輝きを放つことなく一度は地面に落ちた小さな星。単なる塵であるはずのものが、握り締めた手の中で微かに眩さを帯びる。全ての事柄に無理矢理意味や理由を与えるとしたら、その光にかけた二人の願いが実を結ぶ「いつか」を道標に、私はこれからを生きてゆくのだろう。
「一年前、おれを見つけてくれて、ありがとうございます」
広い背中に腕を回す。そうして抱き合った体勢のままレッスン室の端から端まで転がっていって、勢いよく壁にぶつかって、翠くんと顔を見合わせながらけらけらと笑った。
「……私ねえ。初めて会った時からずっと、翠くんのことがだいすき」
「知ってます。だから、ずっとおれのこと見ててください」
先輩が見ててくれたら、おれ、いい『アイドル』になれる気がする。
そんなふうにいつも翠くんは言うけれど。
「ばかだなぁ」
きみは、もうとっくに『アイドル』だったよ。
まだほんの小匙一杯。だけど、今日も確かにすくわれているのです。