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『とりあえずエントランスまでは着いたんスけど、これからどうすればいいっスか?』
「部屋番号押して待ってて。すぐ開けるから」

程なくして玄関のインターホンがぽーんと鳴る。二度目を待たずに解錠ボタンを押すと、電話の向こうで自動ドアの開く音がした。
《南雲 鉄虎》懐かしい名前が液晶画面に表示されたのは、つい30分ほど前のことだ。



「鉄虎くん?どしたのこんな時間に」
『あ、姉御、お久しぶりっス。さっきまで翠くんとふたりで飲んでたんスけど、寝ちゃったんで。これから連れて帰ります』

久しく話す機会がなかった高校時代の後輩から突然、留守中の亭主の名前を出され、大方の事情を察した。とはいえ夜半急な飲みの誘いに応じてくれるような友人が彼にそう何人もいるとは思っていなかったので、予想通りといえば予想通りの結果かもしれない。

「あー…ごめんね。うち分かる?」
『翠くんの財布に免許証入ってたんで、タクシー乗って住所言えば大丈夫だと思うっス』
「そっか」

アルコールの名残を感じさせないしっかりとした口調で話す鉄虎くんへ相槌を返しながら、数時間前、何も言わずに部屋を出て行った翠くんの仏頂面を思い出す。

『それにしても珍しいっスね。翠くん、いつもならこんなになるまで飲まないのに』

不思議そうなその言葉に、私は黙って肩を竦めた。



☆ミ



壁一枚隔てた向こうに人の気配を察知し、玄関のドアを開ける。

「ほら翠くん、着いたっスよ!お願いだからちゃんと歩いてほしいっス〜」
「んん、むり、ねむい…」

ついさっきまで電話越しに話をしていた鉄虎くんが、翠くんの色々と憚らないサイズの身体を肩に担ぎながら泣きそうな声を出した。

「わざわざありがとね、ほんと」
「姉御!ちーっス。夜分遅くに失礼するっス」

私の顔を見て幾分か表情を和らげた鉄虎くんに向け、申し訳なさに眉を下げる。
すると真っ赤な顔でふらふらと彼に体重を預けていた翠くんがよろめいたので、支えるために慌てて腕を伸ばした。

「酒くさ…」
「う、きもちわるい、名前ちゃん、水…」

呻き声と一緒に大きな身体が降ってくる。わざとなのか無自覚なのか、ちょっとぶりっ子したい時の呼び方で私を呼ぶ翠くんのおでこをべちんと叩いた。

「鉄虎くん、とりあえず上がって。お茶くらい出すから」

どうにかそれだけ声をかけると、足元がおぼつかない翠くんの靴を脱がせて、半ば引きずるようにリビングへ引き返す。「押忍!」と元気に一礼をしてから、鉄虎くんも後に続いた。



「にしても…大きくなったねえ。鉄虎くん」

ひとまずはおとなしくなった酔っ払いを手近なソファーへ転がし、どうにか来客をもてなす準備が整った。
テーブルを挟んで向かい合った彼は椅子の上に胡座をかいて、私の淹れた番茶をずずず、と啜り、それから少し困ったような声を出す。

「なに言ってんスか。俺、結婚式で会った時にはもうこのサイズだったっスよ?」
「そうだっけ?」

八重歯を覗かせる人懐っこい笑顔は何ひとつ変わっていないのに、鉄虎くんの身長はあの頃に比べて随分と伸びた。何せ、一人で翠くんを担いでここまで来られたくらいなのだ。その成長には目ざましいものがある。
いつまで経ってもガキ扱いして…と不服そうに口を尖らせていた鉄虎くんは、ふと気がついて辺りを見回し、それから感心するようにため息を吐いた。

「本当に一緒に暮らしてるんスね」

最後に会ったのは確か、結婚式の二次会だったような気がする。あの時はすっかり飲み過ぎて泣き上戸と化してしまった鉄虎くんの身体を終始翠くんが支えていて、「主役に何させてんだ、鉄」なんて鬼龍先輩に怒られていた。今日とはまるっきり逆の状況だ。

「学院時代、翠くんが着ぐるみを着た姉御に向かって『結婚してください!』とか言い出した時には、まさかこんなことになるとは思わなかったっスけど」
「……あったねえ、そんなことも」

懐かしさに思わず目を細める。
流星隊の大きな仕事が入る度、どうにか翠くんにやる気を出してもらおうと着ぐるみを纏ってご機嫌を取り続けた日々。そんな印象が強いから余計に、鉄虎くんも私たちが『アイドルとプロデューサー』から『夫婦』になった実感が薄いのかもしれない。

「あれは私じゃなくてゆるキャラに言ったの」

思い返すとちょっと虚しくなるくらい、学院時代の翠くんは着ぐるみに向かってまっしぐらで、中身の私になんてまるで興味がなかったような気がする。
そう素直な感想を伝えれば、鉄虎くんはなぜか「分かってないっスね」と呆れたように笑った。

「…で、なんで喧嘩したっスか」
「うぐ」

――やっぱり、そういう話になっちゃうか。
存外他愛のない話題がここまで展開されたことに少し安心していたのだけれど、迷惑を被った張本人からすれば核心に迫らずにはいられないらしい。
「喧嘩、っていうか」唐突に切り出され、ぐっと喉を詰まらせる。

「一緒に録画したドラマを観てたんだけど」
「ドラマって、翠くんが戦うバーテンダーの役やってるあの」
「ああ、うん。それそれ」

きっかけは多分、ほんの些細なことだった。
明日は久しぶりの一日オフだから、と翠くんと一緒に晩ごはんを作って食べて、お風呂上がり、いつもみたくソファーへ並んでテレビを見て。

「なんか昔を思い出しちゃってさ…ほら学園祭で、なんとか喫茶のウエイターやったことあったでしょ。流星隊のみんなでコスプレしたやつ」

ドラマの中で翠くんが着ていたものとよく似た、モノトーンにまとめられたシックなカフェの制服は、当時メンバーの新たな魅力を引き出すのに充分なインパクトを有していた。その効果もあって客入りは上々、これまで学院内でどこかコミックグループ的な立ち位置にあった流星隊にとって、路線を見つめ直すひとつの転機にまでなったのだ。

「あれかっこよかったなって。当時はライブの準備だなんだでそれどころじゃなかったけど、あの格好した翠くんと学園祭デートしてみたかったな、って、言ったの。そしたら」

みるみるうちに翠くんの眉間に皺が寄って、唇がへの字に歪んだ。
こちらとしては何の他意も含まない、ほんの何気ない感想のつもりだった。単なるコミュニケーションの一環だ。それでそこまで不機嫌になられる理由も分からず、一周まわって理不尽ささえ感じてきたころ。
「ちょっと出かけてきます」そんな書き置きをひとつ残して、彼は部屋を出て行ったのである。

「……なるほど」

暗くなってしまった語尾を励ますように、それまで黙って事の次第を聞いていた鉄虎くんが大きく頷いた。その口調が思いの外明るいものだったので、少しだけ気が楽になった。
たっぷりふた呼吸分ほど置いたあと、やがてゆっくりと鉄虎くんが話を切り出す。
これは翠くんの名誉のために敢えて言わせてもらうんスけど。そんな風に前置きをして。

「翠くんは、昔から本当に姉御のことが大好きなんスよ」

はて。

「でも姉御は俺たちのプロデューサーっスから…ずっと『みんなの』姉御だったから、今までいろんなことをメチャクチャ我慢してきたんだと思うんス」

まったく寝耳に水というか、思ってもみない展開に首を傾げる。
翠くんがその青い瞳をきらきらと輝かせるとき、そこに映っていたのはいつだって私ではない。ただのゆるキャラの着ぐるみ。それだけだと思っていた。
けれど、少なくとも「そんなまさか」と簡単に笑い飛ばすことが出来ない程度には、鉄虎くんの口調は断定的で強い。『プロデューサー』であり『女』である私は気付けなくて、『チームメイト』であり『男』同士の鉄虎くんになら理解出来る翠くんの本当の気持ち。
そんなものが、もしもあるとするなら。

「多分、翠くんは悔しいんスよ。たった一度の高校生活で、姉御と一緒にやりたいことを沢山沢山見送ってきて。なんでもっと早く言ってくれなかったんだ!って、そういうガキっぽい男心、わかってあげてほしいっス」

ぶわり、胸の底から込み上げる何かがある。
歳下扱いを嫌がる彼の、滅多に見せない癇癪。それは、とうの昔に過ぎ去ったはずの「青春時代」の中にあった。輝きを投じたその瞬間から今まで、確かにずっと、私のそばに。



「つーことで、俺はそろそろお暇するっス。ご馳走様でした!姉御、翠くんによろしく言っておいてほしいっス」

今日は遅いし泊まっていったら?と私が言うのも聞かず、鉄虎くんは帰って行った。たとえば隠しておいた宝物の箱をそっと開けた時のような、そんな愛おしさだけを、残して。
ソファーでは、相変わらず真っ赤な顔の翠くんがむにゃむにゃと何か呟いている。

(……さてと)

目を覚ましたら、この可愛い男をどうしてやろうか。 
 
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