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ごろごろとベッドの上を転がる。枕元に置かれた、トマトの国からやってきたお姫様みたいな雑なデザインのぬいぐるみと目が合う。
次に出演するドラマの役が帰国子女の爽やかイケメン高校生だとかで、この部屋のもう一人の主は、先ほどからずっと駅前留学のテキストとにらめっこをしていた。どう見ても芳しくないその様子から察するに、学生時代の彼はあまり勉学に励んではこなかったようだ。

「翠くん」
「……」
「みーどーりーくーん」

日常生活に支障はないが近くのものが見えづらいらしく、最近の翠くんは台本やスマホの文字を読むときだけ眼鏡をかける。因みに私にそういう性癖はないのだけれど、(……くそ、かっこいい)ちょっとハマってしまいそうな自分が恐ろしい今日このごろ。
別段他にすることもないので、うつ伏せに寝そべってその整った横顔を堪能した。顔だけだったらこんなに知的に見えるのに。

「今失礼なこと考えたでしょう」
「…いいえ?」

翠くんが敏いのかはたまた私が分かりやすいのか、彼は自分がばかにされたのを視線ひとつで感じ取ったらしい。
久しくこちらに関心を向けられたのが嬉しくて、わざとおどけた反応を返した。「そうですか」けれども翠くんはそれだけ言うと、すっかり興味をなくしたようにまたテキストへ向き直ってしまう。
――正直、面白くはない。
くたくたになるまで抱き潰された跡があるトマト姫(仮名)を引っ掴み、そのキラキラお目目をキッと睨みつける。そーですか。ゆるキャラのぬいぐるみは愛でても、恋人に割く時間はありませんってか。
そういう問題ではないことくらい重々承知してはいるけれど、私だって卑屈になって何かに八つ当たりしたいときくらいあるのだ。

「ミドリクン!ミドリクン!」

退屈しのぎにベッドから起き上がり、わざとらしく裏声を使って話しかける。初めぎょっとしていた翠くんは、やがて呆れたように眉をひそめた。

「チョット休憩シタホウガイインジャナイ」
「……」
「ほら、トマト姫(仮名)も言ってるよ?」

眼前にぬいぐるみを掲げて振る。けれども、やはりこれといった反応はない。

「ワタシ、トッテモアマクテオイシイノヨ!」

いったい何をやっているのだろう。
(だって)己の中の構ってちゃんへ言い訳をするつもりはないにしても、彼ときたら朝からろくな食事も取らずにずっと慣れない勉強ばかりしているのだ。座りっぱなしでガチガチになった身体と頭じゃ、せっかくの知識も入ってこないでしょうに。
冷えかけた思考を必死で振り払い、気を取り直してもう一度声を作る。

「ホラミドリクン、ワタシヲタベテ…」
「じゃあ、いただきます」
「は?」

むきになって半ば自棄っぱちでゆるキャラごっこを続行した私の手首を、突然翠くんががっちりと掴んだ。

「は、ちょっと、え、っ!?」

そして引き寄せられたかと思えば、そのまま有無を言わさず唇が降ってくる――

「……トマトちゃん、かわいい」

くたびれた、トマトのぬいぐるみに。
っていうか、トマトちゃん?トマトちゃんって。ネーミングそのままじゃん、まさか仮名よりもひどいとは思わなかった。

レンズの奥の青い目が細められ、今にも私の手の中で握り潰されんとするそれに向けられたのはこの頃流行りのイケメン俳優『高峯翠』の極上スマイル。その破壊力たるや、メンズノンノも裸足で逃げ出すレベルである。

「全部残さず、食べてあげるから……トマトちゃんの一番おいしいところ、おれに見せて?」

とびきり甘い声で囁いて、今度はちゅっと音を立てながら唇を落とす。「う」トマトに。それから悩ましげな息を吐き、愛おしげにそっと頬をすり寄せた。「ううっ」トマトに!

「うっさいこのメンズノンノ!!!!!」
「メッ…!?ノ、っ、……はあぁー!?」

ついに嫉妬に狂ってわけのわからない罵り文句を叫ぶと、いきなり素に戻った翠くんもつられてキレた。しっかりとこの手に握り締めていたぬいぐるみは容易く奪い取られ、放り投げられ、ついでとばかりにベッドへ押し倒される。

「なんなんすかさっきから、ひとが真面目にやってんのに!おれが誰のために仕事頑張ってると思ってんですか!」
「知ってる!私でしょ!でもちょっとくらい構ってくれたっていいじゃん!せっかくの休みなんだから、たまにはふたりの時間、大事にしてくれたっていいじゃん!」

衝動に駆られるまま、叫んだ。正直自分が何を言っているのかよく分からなかったし、多分翠くんの方も分かっていないんじゃないかと思う。

「いったいどの口が言ってんですか!一緒に住むって決めた時、私のことは良いから、私が翠くんを支えるから…って一方的でてこでも聞かなかったくせに!」
「私だって出来ることなら、ずっと包容力のある歳上の女でいたかったよ!でも無理!不安で不安で仕方ないの!翠くん、どんどんかっこよくなるんだもん!毎日、毎日、『今が一番好きだなぁ』って思うんだもん!」
「そんなのこっちの台詞ですよ!おれはあなたの弟じゃないんです、『彼氏』なんです!不安ならなんで初めからそう言ってくれなかったんですか!」

言葉を重ねるごとにエキサイトしていく口論。ワンテンポほど遅れて、どさくさ紛れに相当恥ずかしいことを言っている自覚がだんだん湧き出てきた。だけど今更止められるはずもない。それが、これまで散々持て余してきた己の本音であるなら尚のことだ。

「言ってくれたら優しくできたのに」

荒々しい動作で眼鏡を外し、息継ぎもそこそこに翠くんが再び口を開く。

「おれだって、おれだって本当は名前さんのこと…………ひっく」

――その矢先の出来事だった。
「ひっく」。あまりにも場の空気に不似合いなアクシデントに、肩の力が抜けた。ひっく、ひっく、ひっく。捲し立てようとする翠くんの言葉を遮った横隔膜の痙攣は、ひっきりなしに彼の喉からまぬけな音となって漏れ出る。
何と声をかけたらいいものか分からず、笑いを噛み殺しながら口元を手で覆った。すると同じく脱力した様子の翠くんが、しゃっくりを繰り返しながらへなへなと私の上へ倒れ込んでくる。

「あーくそ、ひっく、なんでこんなときに」
「珍しくいきなり大きな声出すから」
「名前さんが悪いんです、おれは」

おれのほうが絶対名前さん好きなのに。
そう言う彼を見ていたら、なんだか怒っていたのが急にばかばかしくなってしまって。

「……んははは」

無抵抗の大きな身体を仰向けに転がして、隣へ自分も横になる。

「ひっく。…しゃっくりって、100回続くと死んじゃうらしいですよ」
「ええー。それは、困ったなあ」

むすっとした顔で彼がそう言った。私はその嘘話が翠くんのなけなしの意地悪であることを知っていて、わざと大袈裟な返事をする。

「翠くんが死んだらお腹の子はどうなるの」

ついでに、こんな意趣返しも。
驚くかな、喜ぶかな。もし困らせちゃったらどうしよう。だけど、今ならきっと「冗談だよ。びっくりしすぎてしゃっくり治った?」で済ませられるだろうし。そもそもいくらやることをやっているといったって、こんな見え見えの嘘に彼が引っかかるかどうか。
そんなことを考えながら、おずおずと翠くんの反応を待つ。

「…………マジで?」

――真顔。
からかったこっちがびっくりするくらいの真剣な表情だった。殊更に動揺するでもなく、不愉快な反応を示すでもなく。だからといって、涙を流してはしゃぎ回るわけでもなく。現実を、私と彼との未来をありのままに受け止めて、更にその先を想像しようとする顔だった。嬉しくて、少し泣きそうになった。

「…っ、うそに、決まってるでしょ」

声が震えてしまうのを誤魔化すように、冗談めかしてそう締めくくる。
翠くんのこういうところがずるい。私が必死に考えて考えてどうにか言葉にした気持ちを、ようやく渡せたと思ったら、彼はいとも容易くその上をいくものを出してくるのだ。
「ちぇ」なーんだ、と呟いて、背を向けた私の身体を翠くんが後ろから抱き締める。

「……名前さん、本当に孕まないかなぁ」

今度こそ嘘だか本当だか分からないことを言いながら、大きな手のひらがお腹をさすった。
何がそんなに不安だったんだっけ?

「あ、今ちょっと引きました?」
「……まあうん。正直、割とね」
「そうですか」

でもおれ名前さんのこと手放す気ないんで。残念だけど、諦めてください。
どこか他人事のようなその言葉に、そっか、じゃあしょうがないなぁとこちらも他人事のように考える。

「翠くん、逞しくなったよね」
「そりゃもう。おかげさまで」

床に転がったトマトちゃんのぬいぐるみが、ふたりを見て笑っていた。 
 
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