textbook | ナノ
 
ペシミストの幸さんが書かれた「crazy for you」というお話の別視点です。お読みになる際はぜひ、幸さんの素敵な朔間零を先にご覧ください。(※現在はサイト移転していらっしゃいます。移転先はこちら
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おもむろに腕時計の文字盤へ視線を落とすと、まるで呪いのごとく『彼』の顔が頭をよぎった。絡め取るように私を見つめるのは、闇の中に浮かんだ深紅の双眸。

(今日は、UNDEADの日か)

予定を反芻しながら足を向けたのは、もはや迂回のルーチンと化した軽音部の部室だ。
おそらく、きっと、確実に。『彼』はそこにいる。その場所で私が来るのを待っている、と、そう考えてしまうのは果たして単なる傲慢だろうか。



ドアを開け、部屋の片隅に置かれた黒い棺へと歩み寄る。コンコンと一度小さくノックをしてはみたけれど、内側から反応が返ってくることはなかった。
見た目よりも幾分か軽量なその蓋を恐る恐る横へずらし、中を覗き込む。

――スリーピング・ビューティ。

思わず、そんな言葉が浮かんだ。
一瞬死人と見紛うほどの白い肌へ、長い睫毛が影を落としている。繊細な面差しと裏腹に割合と厚みのある胸板が規則正しく上下していることを確認して、ほっと安堵の息をついた。段飛ばしで駆け上った、駆け上らざるを得なかった『彼』の時間を些かのあいだ取り戻すように、目の前で無防備に晒された二つ歳上の男の寝顔はどこか少女めいて幼い。
御伽話によれば、囚われの姫君は真実の愛のキスで眠りから覚めるという。けれどもその相手が自分であるのかどうか、それを確かめる勇気は私にはなかった。

「…ん、」

突如差し込んだ陽の光に対し、『彼』が時間差で身じろぎをする。

(ああ、いけない)

先程までの思考を慌てて放棄し、結局、私はいつものように声を荒げることを選択した。



「ああもう!今日はレッスンだって言ったのにまだ寝てるんですか!」

静寂を切り裂いて、きん、と鳴く。私の非難に『彼』――朔間零は何度かまばたきをし、事もあろうにこの腕へ縋り付いて情けない声を出した。睫毛の下で、ぞっとするほどいとおしい赤色の瞳が揺れている。

「……うう……やめておくれ名前ちゃん……我輩まだ眠いのじゃ〜……」

いやいやと首を振りながら寄せられた頬をべちりと手のひらで制し、意識の覚醒を促す。

「やめてじゃありません、今日がUNDEADの活動日だって言ったのは朔間さんなんですからね?ちゃんと起きてくださいよ」
「うぐう……」
「リーダーがそれじゃメンバーに、……羽風先輩に示しがつかないでしょう」

名前ちゃんは手厳しいのう。
今ここにいない上級生の名前を出してまでわざと語気を強めた私の言葉へ、彼は瞼を軽く擦り、そんな風に呻いていた。
私は朔間さんを甘やかさない。なぜならそれが二人の間の『お約束』であり、私が彼に許された距離感だと思っているからだ。
「今は4時少し前ですよ」ぼんやりと定まらない視線を彷徨わせている彼に、現在の時刻を告げる。するとようやく朔間さんが重い腰を上げたので、さっきまで棺の中に収まっていたとは思えない細身だけれど骨格のしっかりした長躯は、傍らにしゃがみ込んでいた私を見下ろすような形となった。
今、ここで。寝癖の残る艶髪を撫で、微睡みにとろけた目尻へキスすることも出来る。
けれどもその代わりに、私は立ち上がって朔間さんの手首を掴んだ。

「名前ちゃんはしっかり者じゃのう」
「私がしっかりせざるを得ないような状況にしてるのはどなたですかね」
「我輩かのう」
「わかってるならきびきび歩いてください」

憎まれ口の裏側に隠した自分の気持ちがどこへ向いているのか、本当はちゃんと分かっている。だけど今は。
今は、まだ。



***



≪本日の日替わり:生ハムサラダ≫

予め記しておくと、普段お弁当持参の私が今日に限って食堂でランチをとることを決めたのは、100パーセント全くの偶然だ。
食堂に掲げられた看板の文字を見て、内心で舌を打った。忘れたころに再び降りかかった呪いは固く結びついて輪を作り、この心臓をがんじがらめに戒めている運命の鎖へ加わってまたひとつ長くなる。
誰に向けた言い訳かも判然としないけれど、本当に私は、今この瞬間まで忘れていたのだ。今日の学食のメニューも、『彼』の食的嗜好のことも。

(大体、まだ会えるって決まった訳じゃ…)

「痛っ」

突然、足元にあった大きなかたまりに躓き、ぼんやりと巡らせていた思考を遮られる。
これまで宙へ彷徨わせていた目線を戻せば視界に見慣れたオレンジ頭が飛び込んできて、私は先ほど自分がぶつかったそれの正体を知った。

「こんな場所で何してるんです、」

月永さん。
一応尋ねてはみたものの、彼の行動パターンなんてたかが知れている。つまるところ妄想、作曲、それに準ずること――のどれかだ。言動自体は何かにつけ素っ頓狂な部分の多い月永さんだけれど、その全てにはきちんと明確な規則性が存在していた。

「月永さん?」

だから私がこんなふうに呼びかけたところで地べたに腰を下ろした彼が返事も寄越さないことくらい、とっくに予想はついている。
どうしてこの学院には、こうも困った先輩が多いのだろうか。
遠巻きにこちらを見ている群衆の視線が痛い。はあ、と大きなため息を吐き、今にも食堂の床を全部五線譜にしてしまいそうな細い腕を掴んだ。

「……ちょっと、月永さん!いい加減にしてくださいよ!」

インスピレーションを不作法な金切り声に遮られるのは、彼が最も嫌がることだ。
こういう時、あんずちゃんならもっと上手くやるのだろうけど。

「ああっ!待って名前!今天才的なアイデアが浮かんできたんだ!今すぐこれを書き記さないと世界の損失だぞっ!?」
「わかりましたからお昼ごはん食べてからにしてください!ああああもう、座り込んで地面に書こうとしないでください!」

生憎、私は他人に迷惑をかける芸術に情状酌量の余地はないと思っている。念のために言っておくと、私が月永さんを人間的に尊敬しているとかいないとか、そういう問題は今回の事の是非とはまったく関係のない話だ。
利かん坊を地べたへ引き摺り倒さんばかりに力を込めれば、彼の方も負けじと声を荒げて抵抗した。――その刹那。


「名前ちゃん」



波立った心に、ぽつり、と。
いつも多分に孕んでいるはずの甘さが欠け、どちらかといえば縋るように呼ばれた名前。『彼』の声が、突如として私に静寂を連れてくる。



「朔間さん」

振り返れば、その唇が美しく弧を描いた。

「こんにちは。珍しいですねこんな時間に……ああ、生ハムサラダの日ですか」
「そうじゃよ。よく覚えておったのう、いい子いい子して褒めてあげよう」

なんとも白々しく、今初めて気付きました、みたいな顔をしてそう言うと、こちらへ向けて伸ばされた長い指がすっと髪を梳く。それから、旋毛のあたりをわしゃわしゃと掻き混ぜられた。

「や、やめてください。頭撫でないでください」

単純な気恥ずかしさと、先ほど顔を合わせた瞬間からずっと心に引っかかっている不可解な後ろめたさ。その狭間で今にも潰れそうになりながら、ぎゅう、と目を瞑る。けれども朔間さんはなかなか手を止めてくれない。
「朔間さん」「やめてください」「もう許して」「朔間さん」弱々しくも何度かそう繰り返すと、やがて彼ははっとした顔で私から距離を置いた。

「……うむ。まあこれは後でたくさんするとして、名前ちゃん」

――まだ続くのか、この拷問。
文句が無いわけではなかったけれど、それより彼の調子がようやく平素のものへ戻ったことにほっとする。
何ですか?と続きを促せば、朔間さんは私の目を逃れて再び床へうつ伏せになっている月永さんへと視線を落とした。

「サンドイッチか何か、片手でつまめるものを食べさせたらどうじゃ?このままだと名前ちゃんも食べそびれてしまうじゃろう」

ふと気付いて、愕然とする。

「…あ、」

だって、すっかり忘れていたのだ。ついさっきまで、往来であれだけの押し問答を繰り広げていたというのに。
この人が視界に入ったその瞬間から、他のことなんか、ちっとも。

「そ、そうですね」

(だめだ)このままじゃ伝わってしまう。(私がいつも、朔間さんのことをどんな目で見ているのか)全部、本人に知られてしまう。



「…ちょっと購買に行ってきます」

どうにかこの場を逃げ出そうと、咄嗟にそう言い捨てて背を向けた。「なら、我輩も一緒に行こう」けれど、返ってきたのはまるで追い討ちをかけるような言葉だった。

「……生ハムサラダ、無くなっちゃいますよ」
「予約してあるから大丈夫じゃよ。月永くんに何か買ってきたら一緒に昼食でもどうじゃ?」

大丈夫なものか。分かってない。この人は、なんにも、分かっていない。
思いの丈を全てぶちまけてしまったら、私はもう彼の、彼らの『プロデューサー』ではいられなくなってしまう。気持ちの通じる通じないに関係なく、その先にはただ逃れようのない「終わり」があるだけだ。だったら私は特別な関係なんて欲しがらない。一生。
好き、だなんて、言いたくない。

「……じゃあ行きましょうか」

半ば自棄になりながら、いつものようにその手首を掴んで歩き出す。

「楽しみじゃのう」
「……生ハム本当に好きなんですね?」

繋いだ手があたたかい。例え臆病者と罵られても、私はこの体温を離したくないのだ。
腕を引けば、朔間さんは素直に後ろを付いてくる。けれどその実、導かれているのは私の方で。



「名前ちゃん」



耳元に寄せられた、唇。

「大好きじゃよ」

その吐息が、熱が。たったひと言で、心に絡まっていた枷をすべてまとめて溶かし尽くしてしまった。

(どうしてあなたはそうやって)

責めるつもりで背後を振り向く。けれども私が彼を見るより先に、彼は私を見ていた。その、赤いふたつの眼で。
――ずっと、私を、見ていたのだ。

「どうしたんじゃ?」
「どっ……なっ……、何するんですか!」
「名前ちゃんの疑問に答えてあげただけじゃが」
「答え方があるでしょう!」
「顔が真っ赤じゃな」
「誰のせいですか!」
「我輩かのう」

ころころと笑う朔間さんを見て思うことは、この人が眠り姫でもなければ王子様でもない、ただの自称吸血鬼だということだ。
私が私にしかなれないように、朔間さんもまた朔間さんでしかない。それならまだ、誰も見たことがないような物語を描ける可能性は残っている。「終わり」のない物語を――

「…朔間さんがその気なら、こっちにだって考えがありますからね」
「ほう、それは。ぜひとも、聞かせてもらえんかのう」

ふたり、ならば尚更。 
 
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