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「もういい」

振りほどかれたそれを繋ぎ直そうとして、伸ばした指先は虚しく宙を切った。
まるでドラマのワンシーンみたいな台詞を一方的に投げ付け、くるりと半回転。まっすぐにこちらを見据える名前さんの目が赤い。

「みどりくんのばか」

震える唇のあいだから、涙の代わりにこぼれ落ちた。みどりくんのばか。その言葉が、呪いのように耳へこびりつく。
予想外の展開に慌てた俺が正しい返答を必死で探しているうちに、名前さんの身体は再び180度ターンした。ふわりと広がったスカートのプリーツを眺めながら、まずい、と思ったときにはもう遅くて。
駆け出した彼女の背中は、瞬く間に人混みの中へと吸い込まれていく。

「…名前さん、」

置き去りにされた名前だけが、ぽつり、とアスファルトの上に落ちた。



「一緒に観ようね」と兼ねてから話していた映画の上映期間が今日まで、それに偶々俺のオフが重なったこともあり、二人でレイトショーに行く約束をしていた。仕事を急いで切り上げ、オフィスカジュアルのまま待ち合わせ場所へ走ってきた名前さんの姿は毎朝見ているはずなのに妙にどきりとしたのだけれど、いかんせん、彼女が前日も夜遅くまで働き詰めだったのを俺は知っている。上映までの空き時間モールでウインドウショッピングをするあいだもその顔には色濃く疲労が滲んでおり、何度も健気に欠伸を噛み殺しているのが見て取れた。
そりゃあ、久しぶりのデートらしいデートだったし。映画も観たかったし。朝から無性に浮き足立って、もし帰ってきた時夕飯の支度がすっかり出来ていたら名前さんが喜んでくれるかもしれない、なんて滅多にやらない料理にまで挑戦してみたりして。正直、もうめちゃくちゃ楽しみにしていた、けど。
「今日は帰りましょう」そう言ってしまったのは彼女を慮ったのが半分、自分に後ろめたいところがあったのが半分。
先の保証なんてどこにもないのに、芸能界という不確かな世界で俺が生きることを名前さんは許してくれた。休みは基本的に合わないし、今はまだ稼ぎだってそれほど良いわけじゃないのに、いつだって「私も頑張るから」と笑っていた。そんな彼女にこれ以上、俺が何を強いることが出来るだろう。
あんなに怒ると思わなかった。はぐれたところでどうせ帰る場所は同じなのだからその点心配はないけれども、どうにも罪悪感が先立ってしまい足取りが重くなる。

(……こういう時は、甘いもの)

モールの地下に入っている洋菓子屋のチーズケーキは、名前さんのお気に入りだった。
急げばまだ閉店に間に合うかもしれない、と、覚悟を決めて走り出す。
ご機嫌取りと思われても構わない。とにかく俺は、一刻も早く、また彼女に笑って欲しかったのだ。



☆ミ



あまり厳重とはいえないセキュリティのエントランスを抜け、勢いよく階段を駆け上がり、見慣れたドアノブへ手をかける。無用心なことに、玄関は鍵が開いたままだ。
靴を脱ぐために視線を下へ動かすと、ふと、床へ無造作に投げ捨てられた布の塊が目に入る。今日彼女が着ていた黒いコートだった。
他にもストールや、カーディガン、ブラウス、スカート。転々と落ちているそれらを逐一拾い上げながら廊下を進んで行き。
最後に、浴室の扉の前で下着を発見した。

――脱ぎながら風呂に入ったのか。

まるで癇癪を起こした子供のような所作がいつもしっかりしている名前さんの印象とあまりに重ならなくて、思わず、心に暖かいものが込み上げてくる。
一先ずリビングへ行き、未だ俺が家を出た時の状態が保たれたままの食卓へ洋菓子店の紙箱を並べた。それから脱衣所へ戻って、腕いっぱいに抱えた彼女の衣服をまとめて洗濯機に放り込む。

(さて、これからどうしようかな)

少しだけ考えるポーズを取ってみたけれど、答えなんか最初から決まったようなものだ。
俺は思いきってバスルームのドアを開けた。



「……名前さん?」

シャワーの音は聞こえなかったはずなのに、呼びかけてみても返事はない。
浴室には名前さんお気に入りの入浴剤の匂いが充満している。お湯の色がすごく綺麗なんだよ、といつだか嬉しそうに話していた、俺にはよく分からない花の香りの入浴剤。
見ればその透き通ったグリーンへ小さな身体を沈めて、彼女は静かに寝息を立てていた。

(やっぱり)

お風呂で居眠りするくらい疲れてたくせに、と少しだけ恨みがましく思った後、その目元が泣き腫らしたように赤くなっていることに気づいて胸が痛む。
なるべく気配を殺して浴槽の傍らへ膝をつき、水滴の浮かんだ額を張り付いた前髪ごとそっと拭った。
化粧を落とした途端に幼くなる名前さんの顔が好きだ。ずっと眺めていたい反面、そのあどけなさがどうにも危うくて、あまり俺以外の人間には見せて欲しくない、とも思う。

「ごめんね、名前さん」

なめらかな頬の曲線をなぞるように触れる。
すると長い睫毛が細かく上下に震えて、不意に弱々しい力が手首を掴んだ。

「…わたしも、ごめんね」

ぼんやりと視線を彷徨わせながら、今にも消え入りそうな声で呟いて。俺の手のひらに顔を寄せて、それからちゅ、と口づける。
「怒ってごめんね」「置いて行っちゃって」「ばか、って言って、ごめんなさい」そんなふうに言葉を区切りながら何度も、何度も。無防備にも程がある格好で強請るようにキスを繰り返され、頭の中が煮えていく。名前さんの裸を見るのはこれが初めてではないけれど、それにしても破壊力の過ぎる光景だった。少なくとも帰り道、必死で用意していた筈の気の利いた台詞が、全部どこかへすっ飛んで行ってしまうくらいには。
俺は欲深い人間だから、ほんのさっきまで笑顔が見られればそれでいいのだと宣っていたその口で、つい名前さんの唇を塞いでしまいたくなる。「みどりくんのばか」そう言った彼女の言葉は悲しいくらいに真実だ。

「映画はDVDになったら観られるし」

それでも。
せめてこの人の前では、名前さんが好きだと言ってくれた「翠くん」のままでいたい。

「おれ、人の多い場所とか苦手なんで。…やっぱり、名前さんと二人がいいです」
「でも、っ」

気が済まなさそうに開きかけた唇へ、そっとひとさし指を添えた。
見ているこっちがもどかしくなるくらい、彼女は俺のことを大切にしてくれようとする。だけど別に、今がいつだって、ここがどこだって、そんなことはまったく大した問題ではないのだ。――俺にはただ、隣にあなたがいてくれさえすればそれで。

「とりあえず、ごはん、食べましょう?」

でないとお仕置きしちゃいますよ。
冗談交じりに欲望を滲ませれば、彼女はようやくふにゃりと頬を弛ませて笑う。ああ

「おれの可愛い名前さん」
「…なんですか、いきなり」
「今日はデザートにケーキもありますよ」

ずっと、その顔が見たかった。 
 
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