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――だめだ、勝てない。

目の前に広がる光景のあまりの凄惨さに、ふとそんな感想が頭をよぎった。
2月14日、バレンタインデー。世の女子たちは年にたった一度のこの日、逸る思いをチョコレートに乗せて伝えることを許される。
一方ここは、歌手活動を始めとしモデルや俳優などあらゆる方面で活躍中のイケメン男子高校生が多数在籍する、あの夢ノ咲学院アイドル科だ。バレンタイン当日、意中の彼にプレゼントを渡す目的でファンが殺到することは、誰の想像にも難くなかった。
おびただしいほどの数の人間が、意志を持つひとつの大きな怪物のようにうごめきながら校門を取り囲んでいる。現在先生方や警備の人たちが総出で対処にあたってはいるけれど、あまり効果は期待出来そうにない。何せ、パニックを見越して対策に対策を重ねた結果が今の状況なのだ。

(まさかこれほどとは)

ため息と共に視線を落としたその先には、こんなことになるとは夢にも思わなかった昨日の自分が、愚かにも用意していた例のブツ。
私だって女に生まれてきた以上、恋する乙女にとってこのイベントがどれだけ大切なものなのかは理解しているつもりだ。そうでなければ校内のキッチンスペースを借りてまで、『初心者でも簡単!手作りガトーショコラ』なんてわざわざ準備したりはしない。

(みんな、大丈夫かな)

とはいえ事態はもはや、渡せる渡せないの問題をとっくに超越するところまできていた。
本来ならすでに集合しているはずの流星隊の面々は、いまだ誰一人としてレッスン室に現れていない。プロデュースの都合上たまたま学院に泊まり込んでいた私と違い、彼らがここに辿り着くためには、あの人混みをどうにかして掻き分けてこなければならないのだ。
サービス精神の塊みたいな守沢先輩やマイペースな深海先輩はともかく、一年生の三人は、特に今年が夢ノ咲に入って初めてのバレンタインだった。翠くんなんかあの惨状を目の当たりにした瞬間踵を返して、今頃自宅のベッドで寝直しているかもしれない。

(……みんな、なんていい子ぶっちゃって)

本当は初めからずっと、たったひとりのことしか眼中になかったくせに。
やがてがちゃり、と音を立ててレッスン室の扉が開き、『彼』が姿を現した。

「おはようございます」
「おはよう。…翠くん」

揉みくちゃにされた制服の皺を伸ばしながら、不機嫌そうに長い息を吐く。髪はぼさぼさ、コートのボタンもいくつか取れかかっている満身創痍の翠くんはひどく疲れた顔をしていたけれど、それでも彼がこうしてレッスンへ来てくれたことにほっと胸を撫で下ろした。

「一番乗りなんて珍しいね、お疲れ様」
「ああ…鉄虎くんと仙石くんなら女の子たちに連行されていくところ見たんで、まだしばらく来られないと思いますよ。守沢先輩に至っては、チョコくれたファンの子ひとりひとりにお礼のハグまでサービスしてたし」

大方の予想通りというか、ともかく、これからかなりの時間を二人きりで過ごさなければならないことは確かなようだ。願ってもみない状況に心臓が跳ね、そのあとすぐ、不謹慎だなぁと肩を竦ませる。
現場の有り様とみんなの様子を細かく伝えてくれる彼自身にしても、その足元に置かれた大きな紙袋の中はファンからのプレゼントと思しきお菓子の包みで溢れていた。

「なんて言うか、あの…すごい、ね」
「こんなにたくさん貰ったの初めてなんで、おれもちょっと驚いてます」

ちょっとだけ、刺々した気持ち。
渡すなら今がチャンスかもしれない、と頭をよぎったのもつかの間、なんだか無性に心がささくれ立ってしまい、咄嗟に自分のそれを背後へ隠した。せっかく思いを込めて手作りしたチョコレートが、この手を離れた瞬間にあの「たくさん」の中のひとつでしかなくなってしまう。そう考えたら一度振り絞ったはずの勇気が音を立てて萎んでいき、気付いた時にはもう欠片さえ見当たらない。

「先輩は、くれないんですか?」

脱いだコートを丸めて放りながら尋ねてくる。彼の面持ちがひどく平然としたものだったので、余計にそんな思いは強まった。

「あ、うん。お世話になったみんなに、と思って用意してはいたんだけど。…ごめんね。今日は忘れちゃった」

口から出任せも良いところだ。
他の流星隊メンバーには、このあいだのショコラフェスでひと足早く義理チョコを献上してある。故に、本日のメインイベントは翠くんのために準備したこれひとつきりだった。
告白、なんて大それたことを考えていたわけじゃない。ただ、私の持っている『特別』を、全部残らず彼にあげたかっただけ。

(でも、やっぱり無理だよ)

綻びが出ないうちに、渡せないチョコレートは目の届かないところへやってしまおう。さっさとカバンの中に入れさえすれば、あとは何事もなかったかのように自宅へ持ち帰ればいいだけだ。
さりげなさを装いつつ、部屋の隅にまとめて置いた荷物の方へ歩みを進める。
するといつの間に傍まで来ていたのか、翠くんの手が私の肩を押し、レッスン室の壁へと追い詰めた。

「…じゃあ、その手に持ってるやつは、おれ以外の人にあげるの?」

マフラーを緩めながら迫ってくる翠くんの顔が近い。少女漫画でしか見たことがないような体勢とか、敬語の抜けた話し方とか、どきどきする要因なら他にも幾らでもある。

「ま、待って、みどりくん」
「待ちません」
「やだ、はなして」
「離しません」

私が作ったチョコレートも、紙袋に押し込まれているたくさんのチョコレートも、全て等しく彼への恋心がこめられていることに変わりはない。翠くんにとってはありふれた贈り物かもしれなくても、私は、私たちは、大勢の中のひとりなんかで満足出来るはずがないのだ。
何も言わずに差し出せば、「ありがとうございます」と笑って受け取ってくれたかもしれない。来月には、ちょっとしたお返しだって準備してくれたのかもしれない。けれどそれはあくまで『プロデューサー』に向けられた優しさであって、きっと翠くんに恋をしている『私』に対する気持ちではなかった。

「だ、だって…これ、『本命』だよ?」

じりじりと詰められていく距離を遮るように、とうとう持ち出してしまった私の愛のかたまり。こんなふうに渡すつもりで作ったわけじゃなかったのに、と、考えだしたらなんだか泣きたい気分になった。
涙がこぼれてしまわないように、祈りをこめて恐る恐る視線を上げる。相変わらず眉間へ皺を寄せていた翠くんが、幾分か柔らかく目を細めた。

「……おれが、何のために今日ここまで来たのか分かってますか?」

震える指先に大きな手が重なり、苛立った表情が一転困ったようなそれへと変わる。
苦手なはずの人混みを正面から突っ切って、今日、翠くんは真っ先に私に会いに来てくれた。考えれば考えるほど、蕾をつけた期待はみるみるうちに膨らんで。

「名前先輩の『本命』、もらえないとか、ありえないんですけど」

花が、開く。

「翠くん」
「…なんすか」
「好き」
「え、っ、!」

ほんの少し背伸びをして、拗ねるみたいに尖んがった翠くんの唇を奪う。
さて、次は私が差し出す番だ。 
 
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