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改札を抜けた先、喧騒の向こうに、のっぽのふわふわ頭を探した。人目を避けるためのマスクとどちらかといえば暗い色合いの服。それでも彼の周りの空気だけが、私には他と少し違って見えるのだ。
隅っこの柱に背を凭れてスマホの画面の眺めている翠くんへ向け、ぶんぶん手を振る。気付いた彼が顔を上げ、小さくこちらに振り返した。

「久しぶり」

本当に長らく顔を合わせていなかったもので、話し方さえ忘れてしまったのか、語尾が少し裏返る。
さすがにもう身長は止まったようだけれど、前に会った時より若干髪が伸びた。億劫そうに掻き分けられた前髪の奥からきらきらと、ビー玉みたいに綺麗な青い瞳が覗く。

「…ども、っす」

マスクをしているせいで表情はよく見えないけれど、そう言って僅かに目尻を下げた顔は確かに翠くんだった。



☆ミ



「でね、その時友達が」

駅からほど近い翠くんのマンションまでの道のりを、二人並んでてくてく歩く。繋いでいない方の彼の手には私の着替えが入った鞄やら手土産の詰まった紙袋やらがたくさん握られていて、ちょっと申し訳なかった。
会わない期間にも何だかんだとメールで頻繁に連絡は取り合っていたので、お互いに改めて報告する話題はあまりない。
なるべく当たり障りがないよう選んだ私の話に「はあ」とか「ふうん」とか相槌を打つ翠くんは、どこか心ここにあらずといった様子で。けれども一度試しに結んだ指先をほどこうと動かしてみたら、それはがっちりと捕まえられ、阻止されてしまった。
今は何の撮影してるの?とか、新しい靴格好良いね、とか。言いたいことは色々あったけれども、何だか口に出せる雰囲気ではない。心なしか逞しくなった――と言うより、あどけなさのなくなったその横顔を、どんなに見つめたところで彼がこちらを振り向くこともない。

(もっと嬉しそうにしてくれるかと思った)

たとえば私のそれがすっぽりと収まってしまう大きな手のひら、気を抜くとすぐ丸まってしまう背中だとか、ごく自然な所作で道の左側を歩いてくれるようなところ。
そのどれもが見紛いようもなく大好きな彼のものであることが、翠くんが『翠くん』のまま遠くへ行ってしまったみたいで無性に寂しかった。



そんなことを考えているうちにぱっと繋いだ手が離れ、目的地への到着を知らせた。
コートのポケットから出した鍵を、翠くんが鍵穴に差し込んで捻る。

「ただいまー」

ついつい声音が弱々しくなってしまいそうになるのを堪え、出来るだけいつも通りに。
(いつも通りって、どんなだっけ)記憶の糸を手繰り寄せつつ、何気ない顔で敷居を跨ぐ。そのあとを彼が続き、それからばたん、と乱暴に扉を閉める音が聞こえた。

「翠くん?…って、わ、っ」

手首を取られ、そのままくるりと一回転。ドアに押し付けられたのだと気づいたときにはもう、上から翠くんの顔が迫っていた。
キスされるのかとぎゅう、と目をつむったものの、彼は唇を素通りし、乱暴に拡げたニットの肩口へ噛み付く。じゃれている時のそれとは違う、明確な意志を持った痛みに眉をひそめた。

「ちょっと、いた、痛いよ」

首筋に埋められているせいで、翠くんがどんな表情をしているのか確認することが出来ない。それがひどく心細かった。
手荷物を全てフローリングに放り投げ、自由になった左手を服の中へと差し込んでくる。つつつ、と冷たい指先に脇腹を撫でられてバランスを崩した身体を、脚の間に割り入った膝が支えていた。これじゃ逃げようがない。
うなじの辺りに舌を這わされ、強く吸われる。背後でぷちんと音がして、ブラジャーのホックを外されたのが分かった。
恋人同士なのだから、当然『そういう』行為を想定していなかったわけではない。むしろ私のほうが一方的に、翠くんに触りたいと思っていたはずだ。昨日の晩、いつもより一時間も念入りに浴室へこもったのも、わざわざ新調したばかりの可愛い下着を選んだのも、全部全部そのためだったのだから。
けれど今、待ち望んだはずの一挙手一投足に淡い期待は追いたてられ、彼に捧げたかったとっておきは無残に足元へ捨てられている。

「…だ」

こんなのって、ない。

「……やだぁ」

とうとう翠くんの手がスカートの中に伸ばされたところで、小さな嗚咽が漏れ出た。赤ん坊みたいな情けないその声に、彼がぎょっとなって顔を上げる。

「みどりくん、わたし、ずっと、みどりくんにあい…あいたくって」

堰を切ったように溢れ出す涙。

「うれしくて、いっぱいさわってほしくて、なのに、なのにこんな」

何度も何度もしゃくりあげながら言葉を紡いでいると、突然視界が暗くなり、懐かしい温度に抱き締められた。
(翠くんのにおいがする)そう気づいた頃にようやく、私は呼吸の仕方を思い出すのだ。

「……ごめんなさい」

震える背中をゆっくりとさすりながら、彼がぽつぽつ話し始める。

「おれ、おれも、ずっと名前さんに会いたくて……今日駅で顔合わせてからも、なんか夢みたいで、すげえ、不安で」

絞り出すように言葉を探して。
まだずきずきと痛む肩をいたわしげに撫でる。翠くんが、必死に私と向き合おうとしてくれているのが分かる。

「名前さんを好きになってから、余裕なんか、全然ないんです。最終的におれんとこに戻ってきてくれれば、とか、そんなん絶対思えないし」

私は、やっぱり翠くんが好きだ。

「いつも考えるんです。どうしたら名前さんがずっとおれの隣にいてくれるのか……いっそのこと手足縛ってうちに閉じ込めておけたらいいんじゃないかとか、バカみたいなこと、思っちゃう時もあって」

ごめんなさい。
こういうとき、自分の身を守るための嘘を、彼は決して使わない。だから私はその謝罪も、翠くんが抱えている後ろ暗い感情のことも、まるごと全て受け止めようと決めた。
不安だったのはお互い様だ。お返しとばかりに腕を伸ばしてぽんぽん広い背中を叩けば、大きな身体がぐらりとこちらへ傾く。

「閉じ込めてくれたって、いーよ」

「会いたかった」今は只、彼の口からこぼれたその言葉を信じていたかった。

「全部、あげるから。…もっと翠くんの好きなだけ、欲しがってくれていいんだよ」

無言のまま、ぎゅう、と抱き締める力が強くなる。けれども嫌な痛みではない。
センセーショナルな空気に飲まれ、まるで恋愛映画のヒロインにでもなった気分で。酔いしれるみたいに形作った台詞も、私にとってはれっきとした愛の言葉だ。

「……名前さん」

――本当に、縛ってくれればいいのに、と思ったから。

「おれ、もう、欲しいです」

掠れた彼の欲望に、今度は黙って頷いた。 
 
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