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トースターがチン、とご機嫌な音を立てて食パンを吐き出したのと丁度タイミングを同じくして、ベッドサイドに置かれた名前さんの携帯が騒々しくアラームを鳴らしていた。いつもと何ら変わりない、一日の始まりだ。

見ているだけで胸やけがしそうなほどマーガリンとハチミツをたっぷり塗りたくったトーストは彼女の好みで、それを毎朝用意するのは俺の仕事だった。いつまでも止む気配のない目覚ましに名前さんの方を見やれば、そこにいたのは可愛い恋人ではなく――どちらかといえば、「物言わぬ大きな羽毛の塊」。そう表現した方が適切な気がする。
身近にあった布という布に包まった彼女の、白い腕だけが隙間からにょきにょきと伸びてきた。どうするつもりなのかと暫く見守っていると、華奢な指先は手探りで棚の上の携帯電話に辿り着き、先程から延々繰り返されていた固定パターン1を停止する。

(これは、だめだな)

トーストを一度皿に置き、ベッドへ。

「名前さん。名前さん、朝ですよ」

何度か駄目元で呼びかけてはみたもののやはり返事はなく、代わりにすやすやと寝息が聞こえてきた。
一緒に住み始めた頃から元々早起きが得意でなかった彼女は、特に朝方冷え込むこの時期になるといよいよ自力で布団から出てこなくなる。最初こそ「あの名前さんがおれに甘えている」なんて喜んでいたけれど、毎日ともなればこれも一種の重労働だ。
こぼれかけたため息を飲み込みつつも、一番上の掛け布団を両手で掴み、ぐっと力を入れる。すると、分厚い羽毛の下からさらに数枚の毛布に身を包んだ彼女の姿が現れた。

「んん、む、うー」

突如差し込んだ太陽光にぎゅっと瞼を閉じ、もごもごと何か言っている。
お構いなしに抱き込んでいる残りの毛布も引き剥がすと、うつ伏せに丸くなっていた名前さんの身体がころころと転がった。

「ほら。起きてください」

そう言って腕を引く。すっかり上半身を起こしてしまった後でさえ、諦めの悪い彼女はまだ目を閉じたまま、尚且つその両手をこちらへ向かって差し上げてのける。所謂バンザイのポーズ、それの意図するところを俺は日頃の経験から理解していた。

「……しょうがねえなあ」

女の子らしい、淡い色合いのパジャマの袖から腕を抜き、そのまま一息に脱がせる。素肌が急な冷気に晒されたせいか、名前さんの体がぶるりと震えた。
床に落ちていたブラジャーを拾いあげ、肩紐を通す。昨夜はまったく気づかなかったけれど、センターに大きめのリボンが付いていてかわいい。そんなことを考えながら背後に回り込みホックを止めたところで、ようやく彼女が「おはようみどりくん」とおぼつかない舌を回した。

「おはようございます。朝御飯の支度、もうとっくに出来てますよ」
「ん…ハチミツたっぷりにしてくれた?」
「よく起き抜けにあんなもん食えますね」
「おいしいのに」

むにゃむにゃ話す名前さんとぽつぽつ言葉を交わしながら、ブラウスのボタンを留めていく。外すのももちろん嫌いじゃないが、これはこれで庇護欲をそそられるというか、なかなか趣きがあるのだ。

「スカートはそこにかけてありますから」
「はあい」

しかし、余韻に浸っている暇はない。
普段てきぱきと俺を引っ張っていってくれる名前さんが『この状態』に陥ってしまえば、必然的にこっちの運動量は格段に増えるわけで。次のミッションは彼女がストッキングを履いている間にキッチンへ先回りし、コーヒーを淹れることだ。もちろん、これも砂糖とミルクたっぷりで。
――誰かの世話を焼く、って、こんなに大変なことなんだなあ。
そんなふうに考える度、かつて『プロデューサー』と呼ばれていたころの名前さんを思い出す。誰に対しても手を差し伸べ、さもなんでもないことのようにいつも振舞っていた先輩は、本当にすごい人だったのだと実感する。
だからこそ、俺は。

「……いいにおい」

この人のこんなに幸せそうな笑顔を、決して絶やすまいと誓ったのだ。



「いただきます」
「召し上がれ」

(大方俺の手によって)身支度を終えた彼女と向かい合ってテーブルにつき、ようやく朝御飯の時間。
相変わらず眠たげな表情のままろくに目も開けずに齧りついたせいで、名前さんの口の周りはハチミツでべとべとだ。なんだか小さい子みたいだなあと俺がくすくす笑っていると、何のことかも分かっていなさそうな顔をしながら彼女がつられて笑った。
あまりにも無防備なその姿を見ていると、ときどきたまらなく不安になることがある。
だいたい毎朝のルーチンの中で忘れかけていたけれど、妙齢の女性が、恋人同士とはいえ異性に下着まで着替えさせられて――普通ならもっとこう、何か、あるだろうに。男として意識されていないとは思わないが、彼女の中で俺に対する「歳下扱い」がまだ抜け切っていないことにも、薄々勘付いていた。

(人の気も知らないで)

お気に入りの朝食を前にのんきに顔を緩める名前さんを見ていたら、少しだけ意地悪をしたくなった。
いつまでも寝ぼけてないで、いい加減に俺を見て。



「……名前ちゃん」



よごれたくちびるを指先で拭いながら、耳元で出来るだけ甘い声。
ハチミツマーガリントーストにも負けないくらい甘い声でそう囁けば、やっと長い睫毛が大きく上下した。

「みっ……みどりくん、それ、ずるい!」
「だけど目、覚めたでしょう?」

茹でダコみたいに顔を真っ赤にした名前さんが、へにゃへにゃと崩れ落ちる。その姿に免じ、「ずるいのはどっちですか」という台詞はとりあえず心の奥にしまっておいた。



「明日からこれで起こそうかなあ」
「勘弁してください」 
 
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