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明日――俺以外のあらゆる人々にとってそれはもう今日のことだけれど――は休みだ。雑誌の撮影も、ドラマの打ち合わせも、ダンスのレッスンも無し。明日も明後日も明々後日も、自分の代わりなら幾らだっている。
もう何度目とも知れない寝返りのあと、ふと思い立って携帯の電源を入れた。マネージャーからの着信、35件。時刻は午前11時を少し回ったぐらい。
ここのところ立て続けに大きな仕事があり、ほとんど寝に帰るだけとなっていた自宅はひどい有様だった。テーブルの上にはカップラーメンのごみが散乱し、洗濯機には二週間以上溜めに溜め込んだ衣類が溢れ、くるまっている毛布からは湿気た匂いが取れない。実家を離れて以来続いている自分のあまりの堕落っぷりに、ため息を通り越して乾いた笑いが漏れ出た。
一歩外へ出れば、この世界は二束三文のゴシップ記事と周りを見下ろして安心する人々で溢れている。それでも俺はアイドルの『高峯翠』でしかいられない。笑いたくないときだって笑うし、自信なんかなくたって虚勢を張らなきゃいけない。なぜなら、それが多くの人にとって至極当然のことだからだ。そうして来る日も来る日も吐き続けた『嘘』に値段を付けられ、徒らに消費されるコンテンツへと成り下がる。心と身体がばらばらで、呼吸の仕方さえ上手く思い出せなくなって。
(だから無理だって言ったじゃないか)あの日の自分が責め立てる。だってそうだろう。
誰かの行く手を照らしたくてアイドルになったのに、今、視界はどうしようもないほどの暗闇で閉ざされている。自分が一番楽になりたいと思っているのに、他人の光になんてなれるわけがない。こんなやつの歌を聴いて、ほんの少しでも救われたような気持ちになっている人たちが可哀想だ。合わせる顔もない。

『もうアイドルやめる』

虎がバターになるほどの時間をかけてたったそれだけの文章を打ち込み、送信ボタンを押した。吐き出した分だけ心はいくらか軽くなったけれど、その代わりに、俺は自分をまた少し嫌いになった。
自分が自分であること、当たり前、でいることの息苦しさにまるでダメ人間の烙印を押されたような気分だ。なんで俺ばかり、と全てが憎らしく思えて、(そんなはずあるかよ)だけど本当はちゃんと分かっている。
――こんなにも呆気なく捨ててしまえるものだっただろうか。
伝えたいことがある。渡したいものもある。だけどそれが何だったのか、今となってはもう上手く思い出せないのだ。
枕に顔を埋めても、涙は出てこなかった。



☆ミ



微睡みの底から意識を引きずり上げたのは、ごうごうと洗濯機の回る音、あるいは炊飯器が湯気を吐き出す音。いま、ここに生きていることを証明する音だった。
いつの間にか開け放たれた窓辺から陽が差し込んでいる。眩しさに目を細めつつもあたりを見回せば、キッチンに立っている彼女の後ろ姿が見えた。

「おそよう、この健康不良児」

僅かに身を捩った俺の気配を察知し、こちらを振り向かないままそんな声がかけられる。
どうして、と尋ねようとして、やめた。聞かなくても分かる。彼女が伸ばされた手を決して払いのけはしないこと、それを分かった上で助けを求めたのは俺だ。
ことことと鍋の中身が煮立つ効果音と共に部屋へ充満した匂いに誘われて、ぐう、と鳴る。どんなにこの世の終わりみたいな気分でいたって、食べなければいつかはお腹が減るのだからなんだか妙な気分だった。

「お味噌汁、キャベツでいい?一応、茄子とかも買ってきたけど」
「……うん」
「いま玉子焼いてるからちょっと待ってね」

ひんやりと冷たい空気を大きく吸い込む。散らかっていたごみが残らずポリ袋にまとめられたおかげか、幾分か呼吸が楽になったような気がした。
そうして俺が数週間ぶりに目にした床板の色を確認しているうちに、彼女が朝食――世間で言うところの昼食――をテーブルに並べていく。

「ほら、起きて」

そう言って覗き込んだ顔は、決して俺を責めてはいない。それが余計に苦しくて、毛布の下、無言で足を擦り合わせた。
捌け口にするために愛したわけじゃないのに。

「翠」

彼女が、俺が世界で一番嫌いな男の名前をいとおしそうに呼ぶものだから、苛立ちに任せてその手を引いた。
力任せにベッドへ押し付けて、華奢な身体の上へ馬乗りになる。けれども景色がぐらりと揺れて、そこから先の行為を続けることはできない。いったい何をしたかったのかすら、本当は判然としなかった。
胃の中のものを全て吐き出してしまいたいのにひとつだって出てきやしなくて、ただただどうしようもない自分自身の肩を抱く。そうしなければ、縋り付いてしまいそうだったから。

「ここ、ほつれてる」

昨日から着たきりでしわくちゃのシャツの襟元に手を伸ばしながら、彼女が俺の腕を解いた。言われて見れば上からふたつ目、ちょうど心臓からいちばん近いところのボタンが取れかかっている。
いっそのことこんなふうに、あらゆる柵でがんじがらめになった俺の心の柔らかい部分まで、切り離せてしまえるものならよかった。
もしもの話。世界で一番大切な女の子が傷だらけのそれを抱き留めて、唇を寄せてくれたなら。その時、ようやく自分のことを少しだけ許せるような気がしたのだ。

「早くごはん食べよ」
「うん」
「洗濯物、干すのは翠の仕事だからね」
「うん」

か細い腕が頭の後ろに回され、されるがままに片耳を彼女の胸に押し付ける。とくん、とくんと音に合わせて、吸ったり吐いたりを繰り返す。

「何か、あった?」
「あった…けど。忘れたよ、もう」

美味しいごはんが食べられなくたって、シャツのボタンが取れたままだって別によかった。なくしたまま見つからない大事なものもたくさんあるけど、それでもよかったんだ。

「名前」

今はまだ、そんな顔をして君に笑ってもらえるような、自分でいたかっただけなんだよ。

「なーに。愛してるよ」

世界のどこにも逃げ場はない。けれど、視線の先が暗闇ばかりだというわけでもないのだ。毎日少しずつ死んでいった俺の欠片をひとつ残らず拾い集めて抱き締める、彼女の姿がこの目に映っている内は。
彼女は何を食べて、何を着て、誰の隣でこれからを生きていくのだろう。いつまでこんなふうに、俺の隣にいてくれるのだろう。
気付いたら、未来のことを考えている。 
 
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