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「いらっしゃいませー」

間伸びした声。ふにゃふにゃ笑いながら顔を上げた先輩と視線がぶつかって、思わず目の前の看板を二度見した。『八百屋高峯』そこには確かに、そう書かれている。

「あ、おかえりなさい、翠くん」

なんでこんなところにいるんですか。ていうか何してんですか。そう言いたかったのに。
「おかえりなさい」その響きがあまりにも甘く幸せな未来を想起させるから、口の聞き方さえ忘れてしまった。
まぬけ面で直立しながらまばたきを繰り返している俺を見かねて、よっこらしょ、と先輩が持っていた果物の籠を棚に下ろす。

「おばさん、急な用事が出来ちゃったみたいだよ。帰りは遅くなるって」
「……それで店番代わってくれたんすか」
「今日はプロデュースなくて暇だったし。翠くんは部活帰り?お疲れ様」

同じ学校のよしみで、先輩はたまにうちの店へ来る。でもそれはトマトやリンゴやバナナを買うためであって、別に俺に会うためではない。ちょっとくらいはそうだったらいいな、とは、思ってるけど。
『息子が異性を家に連れてくる』というイベントがこれまで皆無だった我が家、特に母親は、礼儀正しくて頑張り屋な先輩のことを大層気に入ってしまったようで。彼女が買い物に来るたび、お菓子やら夕食のおかずやらといったオマケを大量に持たせていた。おかげで最近、二人は俺がいない時にも度々交流を図っているらしい。
いったいどんな話をしているのか、聞きたいような、聞きたくないような。

「面倒かけてすみません。俺代わるんで、先輩はもう上がって下さい」

居間に向かって放り投げたエナメルバッグの代わりに薄緑色のエプロンを手に取る。後ろ手にヒモを結びながら先輩へ声をかけたものの、彼女は呑気に口笛を吹きながら、特売のじゃがいもを段ボールから選別していた。

「いいのいいの。なんか、中学生の時にやった職場体験みたいで楽しいしね」
「職場体験、って…」
「あ、翠くんじゃがいも好き?」
「……好きですけど」
「よかった」

あなた、今日の晩御飯は肉じゃがよ。
一瞬妄想のしすぎで幻聴が聞こえたのかと思った。「は」動揺してもう一度聞き直そうと口を開いた瞬間、「ごめんくださーい」と10歳くらいの女の子が店に入ってくる。
慌てて少女へ向き直った先輩の、耳が赤い。

「一人で来たの?えらいねえ」

おずおずと差し出された小さな手からおつかいのメモと小銭を受け取り、次々と袋に詰めていく。(ああやっぱり)
俺には、この人しか、いない。

「…いい子には、ご褒美だよ」

傍らに跪き、エプロンのポケットから飴玉を取り出した。緊張でこわばっていた女の子の顔が、ぱっと華やぐ。
いつの間にか品物を詰め終えた先輩が、目を細めながら横で少女の髪を撫でていた。





「ありがとう!」
「またきてねー」

その姿が見えなくなるまで、二人で手を振った。差し込む夕焼けがやけに眩しかった。

「……いいな、ご褒美」

閉店の準備をしながら、先輩がぼそりとそんなことを呟く。

「私もあれくらいちっちゃくて可愛かったらよかったのに」

なんにも分かっていない彼女の手を引いて、ちゅっと軽く触れるだけのキスをする。自分がこんなふうに大胆になれるだなんて、先輩を好きになるまでは考えもつかなかったことだけど。
あなたで変わっていく自分。そう考えたら、案外、気分は悪くないのだ。

「……先輩にならいくらでもあげますよ」

だから、俺のお嫁さんになってください。
真っ赤な顔でぷるぷる唇を震わせている先輩へ、彼女に教えられた最高の『笑顔』を浮かべた。 
 
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