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実家の母親から大量のニラが送られてきたので、本日の夕飯は餃子だ。
戸棚の奥で久しく眠っていたホットプレートを引きずり出し、名前さんが調理をしているキッチンへ。とんとん、という包丁のリズムに合わせて、後ろでちょこんと括られた彼女の髪が揺れている。

「ひゃっ」
「なんか手伝うことありますか」

ぴょこぴょこ動くそれを捕まえ、綺麗なうなじを堪能した。驚いた声を上げる彼女の肩へ、顎を乗せて覗き込む。どうやら具材の支度はほとんど終わっているようで、あとは混ぜて、包んで、焼くだけといった状態だ。
手際がいいなあと一瞬感心しかけてから、ふと、名前さんが一緒に暮らし始めて最初に手料理を振る舞ってくれた時のことを思い出した。あれは確かハンバーグだった。「確か」というのは出されたのが正体不明の黒い物体だったからで、キッチンもなぜかそこかしこに玉ねぎの微塵切りが飛び散っているひどい有様だったのをよく覚えている。

「んー。じゃあこれ、ヨロシク」

手渡された小皿と下ろし器におおよその内容を察し、ニンニクを摩り下ろしていった。その隣で、彼女はボールに入った挽肉と野菜をスプーンで混ぜ合わせ始める。
手の中の白い塊がだんだん小さくなるのを見ていた。料理って意外と力仕事なのだ。

「摩り終わったらこっちと合わせて……包むのも、一緒にやってみる?」
「お願いします」

タネをちぎって手のひらの上で転がし、丸い皮の真ん中へ乗せる。軽く濡らした彼女の指先が流れるような動作でそれを「餃子」に変えていくのが、まるで魔法みたいで。見よう見まねで挑戦してみても、俺のはすぐに形が崩れてしまった。

「結構ムズイっすね、これ」
「優しく、やさしくね」

ふふ、とおかしそうに笑いながら、「こうするんだよ」と名前さんが俺のぎくしゃくした手つきにそっと指先を添える。彼女の穿いている淡いブルーのスカートみたいなプリーツが、少しずつ餃子の体を成してきた。
っていうか、顔、近いな。キスしたら怒られるかな。

ピピピピ

そんな邪念を遮るように、リビングの電話が悲鳴を上げた。さっきまで俺の指先へ意識を集中させていた名前さんが弾かれたようにぱっと顔を上げる。視線がぶつかった。

「あ、で、でてくるね!」

慌てて前掛けで手を拭いながら、スリッパをぱたぱた言わせて彼女が駆けていく。いつまで経っても初心な反応がいとおしい。
仕方ないので、電話が終わるまでの間は孤軍奮闘で餃子と向き合うことにした。優しく、やさしく。ああでもないこうでもないと捏ね回していると、リビングのほうからいつもより少し高めの、名前さんのよそ行きの声が聞こえてくる。

「はい、高峯です」

それはまるで呼吸のように。
名前さんが俺と同じ苗字になった時、今が自分の人生で最高に幸せな瞬間だと思った。真っ白なウエディングドレスを身に纏った彼女を目の前にして、幸せすぎて、後はもうゆるやかに落ちていくしかないんじゃないか、と怖い想像をしたこともあった。
けれどそこから季節が何度巡っても、俺は変わらずに幸せなままだ。何なら洗濯物を畳むのが上手くなったし、焦げたハンバーグが食卓へ並ぶこともなくなったし、名前さんのお腹はあの頃より少し大きくなった。
名前さんが隣にいるだけで、明日の自分は今日の自分よりもきっと幸福なのだという予感がする。バカみたいに右肩上がりの日常がこれからもずっと続いていく。そう、当たり前のように信じられた。

「電話、千秋先輩からだった」
「何か言ってました?」
「久しぶりにみんなでメシでもどうだって」
「…うわ、タイミング悪すぎ」
「また今度にしましょう、って言って断ったよ。私たち、今日はイチャイチャする日なんです、って」

なんて大胆な発言へ目を見開いているあいだに、「お、上手にできたねえ」と彼女が俺の渾身の力作へ話しかける。

「…この餃子を、名前さんだと思って、やってみたんです」
「何それ。私食べられちゃうの?」

へらへら笑う名前さんの脚の間に膝を入れて、小さな身体をシンクに押し付ける。それからちゅっと唇を合わせた。

「もちろん名前さんのことも食べますよ。……今日はたっぷり、いちゃいちゃしましょう?」

どこかで聞いたような台詞だなあ、と考えているうちに、ばちん、と彼女のデコピンが飛んできた。「まずは晩ごはんでしょ!」ひりひりと痛む額を手の甲でさする。それもそうだ。



☆ミ



じゅうじゅうというホットプレートの音を聞きながら、翠くんが棚から食器を出し、私がそれを並べる。グリーンとピンクの揃いのお茶碗は、結婚式の引き出物の余りだ。
ジャーの蓋を開けると、炊きたてのお米の匂いがキッチンいっぱいに広がった。ぐう、と私のお腹が鳴る微かな音を耳聡く聞きつけて、彼がぶふっと噴き出す。

「わ、笑うなあ」
「だ、だって…ぐう、って……!」

翠くんって意外と笑い上戸で、一度こうなってしまうとなかなか治らないところがある。一緒に暮らすまでは知らなかったこと。
まず初めに『先輩と後輩』から『恋人』になって、そのあとで『恋人』から『夫婦』になった。恋人の期間には、二人で経験する、はじめてのことがたくさんあった。新鮮な驚きと発見の毎日。それが夫婦になってからは、一つひとつ日常に変わっていく。
なんでもない日がこんなに幸せなの、ねえ、どうしてだか分かる?

「はい。…名前さんは、二人分」

いつもより少し余計にごはんをよそったあと、翠くんがそう言ってはにかむ。初めて会った時から、彼のこの笑い方が好きだった。



向かい合ってテーブルへ着き、油が撥ねないよう気を付けながら、翠くんがホットプレートの蓋を開けてくれる。湯気の向こうでにこにこしている彼につられて私も表情を緩めつつ、顔の前で手を合わせた。

「「いただきます」」

少し不器用な箸遣いで、彼が餃子を口へ運ぶ。それからお米。あんまり一度にたくさんかき込むものだから、頬が膨れて小動物みたいな顔になっていた。昔は小食だったのに。
翠くんが初めてごはんをおかわりしたのは、私が彼に初めてごはんを作ってあげた日だった。何作ってくれたんですか、と目をきらきらさせて聞いてくる彼に向かって、「……ハンバーグ?」と答えることしか出来なかったあの日。疑問符を付けずにはいられないほどあんまりな有様だったそれを、翠くんは余さず平らげてくれたのだ。
どうして?と尋ねた時、彼はひどく真面目な顔をしていた。「おれ、これからは、家族を守らなくちゃいけないんです」いっぱい食べて、強くなる。そんな言葉にふと学生の頃が懐かしくなったのをよく覚えている。

「翠くん」
「ふぁい」
「……おいしいね」

なんだか泣きそうになりながら、少し不恰好な餃子をひとつ、選んで食べた。

「あ、それ名前さんです」
「え」
「おれが食べたかったのに」

テーブルの下、残念そうに眉をさげる彼の足に、自分のそれを絡める。

「あとでね」

みるみるうちに翠くんの顔が赤くなって、口は何か言いたげにぱくぱくと動いていて、傾けた醤油が小皿から溢れている。私だって昔のままの私じゃないのだ。殺し文句のひとつやふたつくらい。
だから今はもう少し、この時間を楽しもうよ。大好きな私の旦那様。 
 
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