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『終わったら、俺とデートして下さい』

ほんの数時間前に彼女と交わした約束を思い返す。いつだって俺の――俺たちのために心血を注ぐ『プロデューサー』さんのこと、ああ言えば絶対に断らないと分かった上での我が儘。
実際、事態は概ね思ったとおりに運んでいた。名前先輩は海賊フェスのあと律儀に二人きりで過ごす時間を作ってくれたし、彼女がキャプテン・喜怒哀楽の衣装に身を包んでいたおかげで、俺は常日頃持て余していた愛情劣情その他様々な欲望を素直に表に出すことが出来た。
着ぐるみ一枚隔てなければ、指一本さえ触れるのを躊躇してしまう。情けない話ではあるが、それでもずっと水面下に燻らせてきたアイラブユーやスタンドバイミーを余さず渡してしまえるのであれば、手段は選んでいられなかった。
彼女の言葉、仕草のひとつひとつがさざ波となって心を揺らすたび、膨れ上がるその衝動に溺れそうになる。

早く楽になりたい。

救われることしか頭になかった自分を、今俺は猛烈に後悔している。

「……名前先輩?」

月明かりに照らされた大袈裟なシルエットが厭にゆっくりと砂浜へ沈み、俺の視界を闇で覆い隠した。



☆ミ



簡素なベッドに横たわる彼女の顔、そのあまりの白さに胸が痛んだ。
むしろどうしてこうなるまで気付かなかったのか、自分自身を問い質したい気分だ。フェスを成功させるため、先輩がろくな食事も取らずに炎天下を駆け回っていた姿を、俺はずっと見ていたのに。

熱を持ってふらついた身体、どうにか振り絞った余力を、彼女はなぜか俺との約束のために費やしてしまう。結果、名前先輩はキャプテン・喜怒哀楽の着ぐるみを着たまま砂浜で倒れたのだ。
投げ出された手のひらをきゅ、と握る。小さく身じろいだ後、先輩がゆっくりと目を開けた。

「……そんな顔をさせたかったわけじゃ、なかったんだけどな」

咄嗟に手を離そうとするよりも早く、柔らかく握り返される。寝起きでまだぼんやりとした彼女の目には、情けない顔をした自分の姿が映っていた。

「先輩、あの」
「あんまり気に病まないでね」

どうして。そう尋ねる資格すら無いように思えた。
俺が『アイドル』で先輩が『プロデューサー』だから。それ以外に理由などない。相手が誰だろうが伸ばされた手を振り払おうとはしない、そういう人だと知っていて、見返りを求めたのは俺なのに。

「私が勝手に無理しただけだよ。翠くんの喜ぶ顔が見たくて、勝手に頑張って、勝手に倒れただけ」

だからもっと嬉しそうにしてよ。
そう言われて、無理矢理口の端を上げてみる。上手く笑えている自信は全くもって皆無だけれど、それでも先輩は満足そうに笑顔を返してくれた。

「キャプテン・喜怒哀楽は?」
「一応、回収してきましたけど……ぼろぼろになっちゃったんで、多分もう着られないと思います」

救護室の隅に丸めて置かれた、キャプテンの成れの果て。倒れた先輩をここまで運ぶ際、脱がせるのが焦れったくなりところどころ強引に破ってしまったのが原因だった。とはいえ着ぐるみから助け出した時の彼女はもう脱水症状寸前で、結果的にはそれも賢明な判断だったと言わざるを得ないのだが。
名前先輩が、今日一日一体化していた彼の変わり果てた姿を少しだけ悲しげに見つめる。それから、今の自分の格好にようやく気付いたようだった。

「うわあ」

真夏に着ぐるみを着込んでいた先輩の身体は当然ながら汗だくで、下に着ていた制服のブラウスが透けてぴったりと張り付いている。一応薄手のタオルケットを掛けて見ないようにはしていたけれど、意識を取り戻した今となってはそれもずり落ちてあまり意味を成していない。
ぼっ、と音がしそうなほど急に顔を赤くさせたあと、慌てて飛び起きた彼女がこちらへ背を向ける。

「すみません。でも、着替えは流石に」
「だ、だよね。いや、ありがとう」
「そこにある体操着、おれのなんですけど……あの、このままじゃ風邪引くし」
「あ、じゃあ借りるね!…ちょっとだけ後ろ向いててもらえる?」

言われた通りに方向転換し、心の中でほっと息を吐く。罪悪感ばかりが先立ってさっきまでは気にする余裕もなかったが、冷静になって考えればあまりに目に毒すぎる光景だ。
ぱさ、と微かな衣擦れの音さえ、残さず拾ってしまう自分の耳が憎らしい。背中に目があるんじゃないかと思うくらい、全神経がそこへ集中するのが分かった。

「それにしても、妬けちゃうよね」
「急にどうしたんですか」
「キャプテン・喜怒哀楽だよ。翠くん、私にはあんなエスコートしてくれたことないのに」

妙に畏まってしまった二人の間を埋めるため、緊張を和ませようとした名前先輩のほんの冗談。
分かっているのに、つい気持ちが急いてしまう。だって手を伸ばせば届く距離に彼女がいるのだ。それも、ひどく無防備な格好のままで。
溢れ出す愛情は小さな身体には重過ぎて、劣情は渦を巻き白い肌を汚す。一度伸ばした指先がいつか互いの首を絞めることになると知っていて、それでも、触れずにはいられない。

「ちがうんです」

気づいたら振り返っていた。今にもボタンを外し終えブラウスを脱ごうとしていた先輩の汗ばんだ背中へ、請うように唇を這わせる。

「え、やだ、みどりくん」
「本当は着ぐるみなんて関係なくて」
「なに…ひゃっ」
「ただおれが、あなたとデートしたかっただけなんです」

そのままのあなたと手を繋ぎたかった。抱き締めて、「可愛いですね」「大好きです」って、伝えたくて仕方なかった。
心臓の裏側へ直接語りかけるみたいにキスを落とす。

「……翠くんの唇は柔らかいね」
「そうなんですか」
「うん。…それで、ひとつ思い出したことがあるんだけど」

まるで、いたずらを思いついた子どもみたいな口振りだった。

「倒れた時、夢を見てたの。ものすごく喉が渇いて朦朧としてたら、これに似た柔らかいのが急に口元に降ってきてね。それから身体に水が流れ込んでくるの。そんで、生き返った〜って思った瞬間、ぱっと翠くんの顔が浮かんで」

安心したから、また眠っちゃった。
楽しそうに語られた一部始終には、俺も確かに覚えがある。何なら、いまだにその夢の中にいるような気さえするのだ。
くるりとこちらへ向き直った名前先輩が、「秘密だよ」と唇の前に人差し指を立てる。

「もういっかい」

今度はこっちに。
足の裏が地面から5センチほど浮くような心地がして、思わず自分の頬をつねってみた。涙がこぼれそうになるのはなぜだろう。 
 
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