textbook | ナノ
「名前さん、ちょっとここ座って下さい」
「え」
「座って」
「…はい」
――あ、怒ってる。
いつもよりワントーンばかり低い声、普段八の字を描いていたはずの眉はつり上がり、その間には深い皺が寄っている。
起き抜けに「新聞取ってきます」と郵便受けに向かい、戻ってきた時にはこうなっていた。心当たりは、多分、ある。
普段(特に私の前では)滅多に気持ちを荒げることのない彼の珍しい空気感に気圧され、言われるがままにベッドから這い出る。そしてなんとなく正座。翠くんの方も、私の真向かいで同じ座り方をしていた。
「……なんすか、これ」
その手に握られているのは一枚のハガキだ。
「美容院のダイレクトメール、です」
「そうじゃなくて」
「たまにクーポンとか送ってくれて」
「たまに?」
「……誕生日の、時、とか?」
『今月がお誕生日のあなたにおトクなバースデークーポン!』やたらめったらお洒落なフォントで読み難いけれど、そこには確かにそう書かれている。そういえば、ポイントカードを作った時に色々個人情報を記入させられた記憶が、おぼろげながら蘇った。
「おれ、名前さんの誕生日知らなかったんですけど」
やっぱりそういう話か。
「だって教えてないし」
「なんで」
「聞かれなかったから」
ハガキ自体は月初めに届いていたんだからさっさと片付けてしまえばよかったのに、横着して玄関に投げっぱなしにしていた己を呪う。
本当に深い意味はなかったのだけど、自分から言うのはなんだかお祝いを督促しているようで感じが悪いかなあ、と。そんなこんなで気が付けば当日だ。
日付に意味を見出せなくなったのはいつからだっただろう。確かに今日は私が生まれた日なのかもしれないけど、多くの人にとっては単にありふれた日常のほんの一部なわけで。それを『特別』にしようとすればするほど、たった一人で世界に取り残されたような気分になった。
「そんなにおれが信じられませんか」
さみしいのは私。
「ケーキとか、プレゼントとか…生まれてきてくれて、おれと一緒にいきてくれてありがとうございますって、そういう気持ち、おれが少しも伝えたくないと思ってたんですか」
それなのに、どうしてきみが泣くの。
私の肩に顔を埋めながら、翠くんが鼻をすすった。寝癖が残ったままの柔らかい髪をそっと撫でる。
誕生日なんて、と思っていたのは本当。だけど大好きなこの子に悲しい顔をさせることだけは、どうしたって許せる訳がないのだ。たとえばその原因が私自身にあったとしても。
「ごめんね」
「……やです、許しません」
翠くんの涙の一粒一粒が私の生きる意味になる。これを拭うために自分がこの世にうまれてきたのだとしたら、初めて心底今日という日を祝福出来る気がした。
「どうすれば、許してくれる?」
ずず、と大きな音の後、顔を上げる。
海の色みたいな翠くんの目に、朝の光がきらめいてとても綺麗だった。
「今日は一日一緒にいてください」
「うん」
「お昼になったら出かけますから、欲しいものと食べたいもの考えておいてください」
「うん」
「あと」
キスして欲しいです、なんて。
あまりにも可愛いことを言うものだから、濡れた両頬に手を添えて、返事の代わりに唇を重ねた。
「これでいい?」
「……しょうがないなあ」
『君』と『私』が『私たち』になるだけで、世界はこんなにも優しい。
「お誕生日おめでとうございます、名前さん」