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これまで生きてきた中で三番目か四番目くらいにマシだと思えるのは、髪から先輩と同じ、水蜜桃みたいなシャンプーの甘い匂いをさせている自分。今やすっかり肌に馴染んだ来客用のバスタオルでがしがし頭を拭きながら、寝巻きの下だけ履いて寝室のドアを開ける。ベッドで足をぶらつかせながら本を読んでいた彼女がこちらを見た。

「冷蔵庫にあった水もらっていいすか」
「どうぞ。……その前に、ちゃんと拭かないと風邪引くよ」

まだ幾らか水滴の滴る平らな胸板を一瞥した後、読みかけの文庫で赤くなった顔を隠す。もう裸を珍しがる段階なんてお互いとっくに過ぎてしまっているのに、いつまで経っても初心で可愛い人だ。
なんだか気持ちが急いてしまい、ひと息に飲み干したミネラルウォーターのペットボトルは潰して捨てる。すると先輩が身構えたように寝台へ座り直したので、正面に胡座をかいてすっと頭を垂れた。
細い指先がタオル越しに俺の髪を撫で、それから肩、胸と順番に乾かしていく。この時間が好きでわざと中途半端に濡れたまま戻ってくるのだと言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
背中を拭こうと後ろへ手を回した先輩をそのまま抱き寄せ、腕の中へ閉じ込める。「みどりくん」と非難めいた声が俺を呼んだが、気にせずそのままシーツの海へ潜り込んだ。そうすれば名前先輩はもう何も言わない。なんだかんだと彼女が俺に大甘なことくらい、自分でもちゃんと分かっている。

「あし、つめたいね」
「先輩の体温が高いだけですよ」

重ねた爪先でじゃれあって、時々、くすぐったそうな笑いを漏らす。憎らしい唇をキスで塞ぎ、その隙を見てパジャマのボタンをぷちりと外したところで、弱々しい力が俺の胸を押し返した。

「ごめんね。今日はなし」

さっきまであんなにいい雰囲気だったのに。移ろう女心に呆気に取られている俺を諭すべく、彼女が言葉を続ける。

「実は…生理がきちゃって」
「嘘。今月はあと二週間は先でしょう」
「な、なんで知ってるの!」
「長く付き合ってればそれくらい分かりますよ。っていうか、いま墓穴掘ったの気付いてます?」

羞恥から思わず口を滑らせたんだろう、これじゃあ自分から「今月はまだです」と白状しているようなものだ。普段滅多につかない嘘を無理して吐こうとするものだから、こんなふうにほんの一瞬で見透かされてしまう。
そうまでして俺との行為をいやがる理由が、今日の先輩にはあるのだ。そこまでは流石にちょっと想像がつかないけど。

「明日、あんずちゃんと出かけるから」
「本当は?」
「……深海先輩と、水族館に」

こんなところで聞くとは思っていなかった名前に、少しだけ面食らった。そういえばこのあいだ流星隊メンバーで行なった校外ボランティアに、珍しく参加していたような覚えがあるけど……大方、その約束を餌に名前先輩が呼んだのだろう。これでようやく合点がいった。
自分の彼女が他の男と二人でデート。正直言って面白くはない。けど、あの時は本当に人手が足りなくて――ふらふらと現れた三奇人の一角が、救世主のように思えたのも確かだった。
第一、前々から一緒に水族館へ行ってくれる相手を探していたあの人が不思議なほど名前先輩に懐いているのは、今まで散々放ったらかしにしてきた俺たちの責任でもある。そう考えたら、一方的に恨む気にもなれない。

「そんなに朝早いんですか」
「そういうわけじゃないけど……その、翠くんと一緒に寝た次の日って、私いつも起き上がれなく、なっちゃうし」

だんだんと尻すぼみになっていった言い訳に、大体の主張を察した。
元々の体格差、体力差に加えて、ああいう行為は女性側へより負担がかかるような仕組みになっている。そのあたりも踏まえ最初はなるべく気を遣おうと考えていても、いざ気分が盛り上がるとすっかり箍が外れてしまっていた、なんてことも少なくはなくて。ついこの前も、ベッドの上で動けなくなった先輩の腰をさすりながら翌一日中、平謝りで身の回りの世話に奔走していたことを思い出した。確かに、外出の予定があるなら自重するべきなのかもしれないけど。

「じゃあ、触るだけならいいですよね」

気を取り直し、ふにり、と控えめな先輩の胸へ手を添えてみる。

「だめ!」

ぺしんと乾いた音がした。むっとして、思わず「俺以外の男との約束がそんなに大事ですか」と卑屈な自分が顔を出しそうになるのをどうにか堪えた。
責めるように覗き込んだ名前先輩の、大きな瞳が潤んでいる。

「……みどりくんに触られると、最後までしたくなっちゃうから、だめ」

俺の胸板におでこをぴったりくっつけて、身体の自由を奪うみたいに両手両足を背中へ回されて。絞り出すようにそんなことを言うものだから、さっきまでの不機嫌なんてすぐにどこかへ飛んでいってしまった。こういうとき身に染みて実感するのは、彼女が得てして俺を喜ばせる天才だということだ。

「先輩がおれに触るのはいいんですね」
「うん」
「なんかずるい」
「ずるくないよ」
「おれは先輩の抱き枕じゃないですよ」
「知ってますよ。翠くんは私の抱き枕じゃなくて、ただの好きなひと」

振りほどけないわけじゃない。もう少しだけ意地悪を言ってやりたい気持ちもあったけど。たったそのひと言で、今日のところは大人しく先輩の意思を尊重しようと心が決めてしまった。
諦めて身体の力を抜いた俺に気付いたのか、彼女が纏っていた緊張感も徐々に和らいでいく。

「翠くんの心臓、どきどきいってる」
「恋してますからね」

服を着たまま抱き合うのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。身体を重ねないで眠る夜、許容範囲を超えた幸せに胸が潰れそうな自分がいることも知らなかった。誰も教えてくれなかったのだ。
人を好きになるのが、こんなにこわいことだなんて。

「いつまでこうしていられるのかなあ」

終わりのない始まりはない。

「いつまでもずっと、じゃないですか」
「ずっと?」
「この気持ちが恋じゃなくなったら、多分、それは愛になっただけなんですよ」

だから、死が二人を別つまで。そうして何度でも彼女に恋をしていたかった。
微睡みが俺の奥底から詩人を引きずり出す。次第に重くなってきた瞼を閉じると、くすりと先輩が笑った気がした。 
 
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