07 保健室の薬品の匂い


5月も終わりに差し掛かり、いよいよ暑くなってきたここ数日。
うだるような暑さにくじけそうになりながら写真部の部室へ向かっていると、正面からどんっと誰かにぶつかった。

「だっ……!!」

地味に痛い。
廊下に膝をつくような姿勢でうずくまると、頭上から「ごめんなさい!」と謝る声が聞こえた。あれ、この声は。

「……桜庭、妹?」

あの、ユキ先輩を常に追い掛け回す脚力を持った桜庭妹のタックルをまともに食らったのだ。そりゃ痛いはずだ。
なんて冷静に分析しているが、実際かなり痛い。俺はしばらく腹を抑えて悶絶していた。
桜庭妹はかなり焦った様子で「ごめんなさい」と「すみません!」を繰り返している。

「い、いいっすよ大丈夫だから……」

必死に謝り続ける桜庭妹に悪い気がして、なんとか痛みを堪えて立ち上がる。

「ほんとにすみません……必死で走っていたので周りが見えてなくて……」
「確かにすごい勢いで走ってたッスね。なんかあったんスか?」
「実はお兄ちゃんとユキさんが見当たらないんです! どこにいるかご存知ありませんか?」
「え、アサギ先輩とユキ先輩が?」

あの二人が見当たらないなんてよっぽどだ。
ユキ先輩は大概写真部の部室でぐだぐだしているし、アサギ先輩は所属する応援団か演劇部の部室、そうでなければ部員ではないけれど写真部の部室にいることがほとんどだ。
それが見つからないというのは、少し珍しい。

「ごめん、解らないっす」
「そうですか……」

しゅん、と肩を落とす桜庭妹。
その様子からしていつもと違い、説教するために追い回しているわけではないらしい。

「……探すの、手伝うっす」
「え、いいんですか?」

ぱあっと顔を輝かせる桜庭妹。
どうせ暇だし、とかユキ先輩いないと宿題進まないし、とか頭の中で並べる言葉は言い訳もしくは建前で、実際はユキ先輩とアサギ先輩の行方が心配だったりするだけだ……ほんの少しだけ。

「じゃあ私は東棟を探してきますので、先輩は西棟を探してもらえますか?」
「わかった」
「すみません、頼みます!」

そう言うと桜庭妹はぴゅーっと走り出していった。
俺は来た道を引き返し西棟に向かう。

先輩どこにいるんだろう、と思いながら。




「いないなあ……」

とりあえず、とまずは先輩のクラスである三年二組に向かったところ、これから帰宅するらしいハナダ先輩とシオン先輩に会ったが、「ワカバにアサギ? 放課後になってすぐにどっか行ったよ」と言われた。

その次は風紀委員会の活動場所である第二会議室。トキワ先輩に「部室にいないならわからないなー、ごめんねー」と苦笑された。

その後体育館に向かう廊下を歩いていたところ窓の外に走り込み中のマサラ先輩を発見、したものの「ごめん、知らないや」と言われがっくりする。

あの先輩たち実はもう帰宅したんじゃないかと思い始めた頃に家庭科準備室で二人のカバンを見つけて、でも二人は不在。クチバ先輩に「ワカバとアサギなら荷物預けてどっかに行ったよ。帰ってはいないと思うけど」と有力(?)な情報とできたてのワッフルをもらった。おいしかった。


というわけで、帰っていないのならその辺にいるはずだ。と結論づけて校内をうろうろする。桜庭妹には家庭科準備室で待機してもらっている。先輩たちが見つからなくても、最悪荷物を取りに来るときに会えるはずだ。

しかしなかなか見つからない。
ほんとにあの人たちどこで何してるんだよ……と思っていると、不意に後ろの方から「あいたっ!」という声が聞こえた。その、やけに聞き慣れた声。
俺は急いでその声のした方に振り向く。そこにあったのは『保健室』と書かれたプレート。それを認識した時にはもう、俺は無意識の内に保健室の戸をがらっと開けていた。

「おー、またケガ人かい? って君はこないだの……」
「あれ、シロ?」
「どうかしたのか?」

一斉にこっちを振り向く、まどか先生とユキ先輩とアサギ先輩。
探していた人をようやく見つけたことに安堵するよりも、俺は二人がぼろぼろの傷だらけになっていることに愕然とした。

「シロ? おーい、どうしたの?」

ユキ先輩が不思議そうに俺の顔の前でひらひらと手を振る。
その手のところどころに赤いシミのようなものがこびりついていて。
おそるおそる、ぎこちなく首を動かして今度はアサギ先輩を見る。その頬には、一直線に赤い線が走っていた。

「……せんぱい、」

その傷どうしたんすか、とか、何してたんですか、とか、桜庭妹が探してましたよ、とか、言いたいことはたくさんあるのに。
言葉にならない。
二人を手当してるらしいまどか先生の手元には、赤く染まった小さなガーゼの山ができていた。

「とりあえず、城戸くんはケガ人じゃないってことでいいのかな?」

そう問うまどか先生の声にはっとして、「あ、はい。すみません……」と慌てて返す。
呆然としている俺にアサギ先輩は苦笑して、言った。

「まあ、こんなんいきなり見たらびっくりするわな。で、なんか用事かい?」
「あ……桜庭妹が、ユキ先輩とアサギ先輩を探してたんスけど……」

正直、見つかったと教えに行きたくない。
どこもかしこもまるでマンガの登場人物のようにボロボロなのだ。
まるで、――こっぴどく殴り合いのケンカでもしてきたような。

「あー……桜庭妹には悪いけど、見つからなかったことにしといてくれるかなあ?」

そう言ってへにゃりと笑ったユキ先輩の頬は、真っ赤に腫れていた。

「それは構わないっすけど……家庭科準備室の二人の荷物のとこで待ってますよ、桜庭妹」

きっとこんな二人を見たら、ひっくり返って気絶してしまうだろう。
それか、大泣きしてしまうはずだ。
それは困ったなあ、と言うアサギ先輩のまぶたが腫れ上がっている。きっと明日になったら目の周りがパンダみたいなことになっているはずだ。

「シロ、悪いけど適当なこと言って僕たちのカバン取ってきてくれないかなあ?」
「すまんけど頼むわ、ヤマブキくん」

ほんとうに困ったように二人が笑って頼んでくるものだから、俺は「……はい」と答えるしかなかった。
きっと俺が訊いたところでユキ先輩もアサギ先輩も何も話してくれないだろう。あの困ったような笑顔が高くそびえ立つよう壁のように、俺を静かに拒絶していた。


なんでだろう。あんなに毎日一緒にいる先輩が、今日はずいぶん遠くにいるように感じる。


家庭科準備室に向かうために保健室の戸に手をかけると、オキシドールのつんとした匂いが鼻をついた。



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たまにはシリアス回。
120521



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