さらわれた明星



「伊地知あれ、誰?」
「ああ、新しい補助監督のナマエさんです。今まで海外赴任していたらしいですよ」
「僕何も知らされてないんだけど、なんかきな臭いねー」

 今まで見たこともない女が急に補助監督になるなんておかしな話だ、海外でも補助監督だったのか、呪術師だったのか詳しいことは不明。上は好きにさせておけとの一点張り。見たところ呪力もほとんどない、見えて、結界を張るぐらいが精一杯の補助監督。謎が多いからこそ興味が湧いた。

「ねえ、無視しないでよ」
「運転中に話しかけないでくださいよ」
「それでさーこの前買った饅頭がうまいのなんのって」
「人の話聞いてます?」

 彼女は最初から人を引き寄せる引力を持っていた。綺麗だが、人形のように完璧に美しいわけじゃない。しかし自分という色を理解し、それを表現する術を知っていた。綺麗に伸びた首から背筋、滑らかで洗練された仕草だったり、口は少し悪いが脳内に響いて広がっていくような声、人が任務をこなしている最中に堂々と喫煙したり、どんなことにも動じない精神や、怒らせると女とは思えない乱暴さで食いかかってくる、彼女が少し動くと艶のある漆黒の髪が束になって一緒に揺れる、触れたくなって髪に指を通せば、触るなクソ野郎と聞こえてきそうなほど鋭い視線を向けられる。呪力ではない別の能力を持っていたり、謎も含めて全てがナマエという人間を構成していた。

「ナマエって苗字なんていうの?」
「……教えたくない」
「なんでなんでー教えてよ、ねえってば!」

 彼女の肩を揺さぶったけれどまるで相手をする気のないようにそっぽを向かれればいい気はしない。「どうせ上は知ってるんだろ?」と耳元で囁いて見せれば、横を向いていた視線がゆっくりとこちらに戻ってきた。夜で塗りつぶされたような真っ黒の瞳にゾクリと背筋に緊張が走る。咄嗟に距離を取ったのは最善だったのかわからない。

 踏み込んでくるな、と言っているかのように重く冷たいその瞳は確かに嗜虐的な色を孕んでいる。僕が知らない彼女がいる、どこまで掘れば彼女の奥底に辿り着けるのだろうか。

「気持ち悪い、ニヤニヤしないでください」
「ああん?それで、苗字何?」

 実名を教えてくれるかどうかは分からないが、後で調べてみる価値はある。

「……ゾルディック」
「え?」
「ゾルディック!!!」

 二回目は半ギレだった。こめかみに皺を刻んでカッと頬が紅潮している。途端に込み上がってきたものを堪えきれずに吹き出せば分かりやすく彼女は肩を振るわせた。

「だから嫌だったのに!」
「イカつすぎでしょ…!ぶっ…そっか、そうだよね、海外赴任してたんだから外国人の可能性だってあったよねえ!それにしてもイカつすぎる!」
「馬鹿にするのやめないとマジで泣かしますよ」
「ごめんごめんって」

 こんな反応をするくらいだからきっと実名だろう。結局教えるならなぜ素直に言わなかったんだ。人の苗字を笑うなんてきっと僕ぐらいしかいないのに、ああ、だから言いたくなかったのか。明らかに不機嫌な彼女の肩に手を回せば強く睨まれる。しかしその口の端にうっかりすれば見落としてしまいそうな微かな笑みが見えた。

「何笑ってんの?」
「え?笑ってましたか?」
 
 彼女自身も気づかなかった笑みの価値にどうやら僕は気づいてしまった。彼女はうーんと首を捻っていたが、しかしその微かだった笑みはやがて大きくなっていく。まさか、と息が止まりかけた瞬間、彼女は花が綻ぶようにくしゃりと微笑んだ。

「ゾルディックを笑えるの貴方ぐらいしかいないだろうなって」

 矛盾している。笑われたくないのに笑ってくれたことに感謝しているような柔らかい言い方だ。だがそんなことはもうどうでもいい、熱い塊が胸につかえて息苦しい。随分昔に失ってしまった感情を呼び戻されたような気分だ。肩に回していた腕で引き寄せてみれば「ちょっと!」とまた顔色を変えて怒っている。もっと怒らせてみたい、みんなには見せない顔を見せてほしい、やはり彼女は不思議な引力を持っている。



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