聖者などいるものか




「どこか遠くに、誰も私を追えない所に行きたい」

 私がそうナニカに頼んだのは、死ぬ勇気が無かったからだ。やり直したいと思ったからかもしれない。『一緒にくるか?』と言った彼に首を振ったのは、これ以上愛さないようにするためだった。もうとっくに手遅れだったのに。旅立った彼が帰ってくることはなかった。わかっていたのに、もう彼はここに戻ることはないことを、なのに胸に空いた穴からスースーと風が通り抜けるように虚しくてどうしようもなかった。

 闇の中を必死に走っていたが、先が見えないということがこんなに恐ろしいのかと知った。振り返っても辿ってきた道はもう見えない、この先を進んでどこに行き着くのか、行き着く先は本当はないのかも知れない、でも止まり続けることはもっと怖かった。

『逃げられるだなんて本当に思ってるの?』

 兄の声に支配された途端、身体中には針が突き刺さっていた。滲み出る真っ赤な血が床を染め上げて、鈍い痛みが感覚を独占する。歪んだ視界の先に見えた兄の姿、身が竦み上がりそうなほど威圧的な視線、嫌な汗が額に吹き上がる。

『お前はどこへ行っても同じだよ。俺と同じかと思ってたけど、少し違うね、ヒソカの方が近いんじゃないかな』
『あんな変態と一緒にしないでよ、気持ち悪い』
『ははっ、だってお前殺しに興奮してるだろ?』

 うるさい、うるさい、うるさい

 耳鳴りのような兄の声に支配されて、深い深い谷底に落ちていく。肉食獣が入るような鉄格子の檻の中に入れられて、死体を外から投げ入れられた。『お前のために殺してきてやったよ』と表情ひとつ変えないで兄は言った。違う、こんなものいらない。唸るような感情が湧きたった。

 コロシタイ

ーーー


「まいったなぁ…なんか全然苦しそうじゃないんだよ」
「痛めつけているだけか?もっと精神的なダメージを与えないと」
「与えてるよ、さっきからずっとね。この女の一番苦しくて辛い記憶を連続的に与え続けているのにさ、なんかケロッとしてるんだ。普通ならとっくに壊れて人形になるのにさ、この女並大抵の精神力じゃない」
「さすがは五条悟のお気に入りじゃないか」

 真人と夏油が見下ろしたのは鎖に繋がれた女だった。指は器用に全部が不自然な方向に曲がっていて、太ももや腹部には複数回突き刺されたナイフが刺さったままになっていた。死んだら困るので急所は外しているが、痛みには目も暮れず、心を壊そうとする幻覚にも対して動じている様子はない。五条悟のお気に入りの女は呪力も少なくそこら辺にいる猿共と同じだと夏油は思っていたが違っていたようだった。

「そんなに殺されたいの?」

 女がゆっくりと顔を上げた瞬間、自然と夏油と真人の肌が粟立った。女の声は恐怖に怯えて震えてなどいない、この状況を楽しんでいるような軽薄な色さえも浮かぶ。女の瞳からすうっと光が抜けて、たった今闇から這い出たような顔で笑った刹那、女を繋いでいた鎖が弾け飛んだ。

「あれ?」

 真人の腑抜けた声など気にせず女は自ら複雑に折られた指をボキボキと戻していく。女から滲み出るのは洗練された狂気、決して近づいてはならないと思わせるほどの威圧感と殺気、押しつぶされてしまいそうな恐怖が覆う。「私は貴方達より人を殺してると思うよ」と女は呟いてから苦虫を潰したような顔をした。

「カタギはツライって弟が言ってた、本当だね」

 真っ黒な瞳は少し儚く見えた。



prevnext BACK


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -