欠けた牙で威嚇して4
ちょうどお風呂から上がってきたばかりの悟くんはソファに座っていた私の太ももに頭を乗せてお腹に擦り寄るような体勢をとる。体は暖かいけれど頭は意外に重いのだ。この体勢が最近の彼のお気に入りらしいけど、まだお腹が出てきてるわけでもないから分からないだろうに、でもそんなこと関係なく彼はこうするのが好きなんだろうな。それにまだ少し髪が濡れてるじゃないか、近くにあったタオルを引っ張ってゴシゴシと少し乱暴に髪を拭いてやる。「もっと優しくしてよ」と生意気な声が聞こえたが聞こえないふりをした。私のパジャマが濡れることは避けたいのだ。
「そういえばおじいちゃんはどうだった?何か嫌なこと言われた?」
「あの人私にはすごく優しいんだよ。体の心配してくれたよ、補助監督じゃなくて内部の事務に異動させようかって」
「それは僕も賛成だけど、どうせ断ったんでしょ」
「うん、補助監督は続けるよ」
これ以上言っても無駄だと思ったのか、悟くんは仕方なさそうに息を吐き出した。慰めるように彼の頬に手を滑らせて、唇にキスを落とせば応えるように触れ合いあう。離れようとすれば阻むように伸びてきた手が頭の後ろをガッチリと抑えてキスは深くなっていく。次第に片方の手が体のラインをなぞるように動くので、悟くんの唇を噛んでやった。
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野球が開始される前、グラウンドで体を動かしている生徒達に混ざってキャッチボールをしている補助監督の姿があった。「ナマエさん肩使って投げないと」と助言を受けていたが球すら投げたことがないのか、女が投げた球は正面の虎杖悠仁に到達する前に地面に墜落した。この場に補助監督の服を着た人物がいるのは目立つ、京都校の視線が彼女に向いた。
「もしかしてあれが例の?綺麗で優しそうな方に見えますけど」
「……ああいう女が一番厄介な気はするけどね」
「とにかく、俺たちは言われた通りにするだけだ」
歌姫が京都校の生徒達に指示したことがある。それは補助監督ナマエという謎の存在についてだった。呪術師でもなく、ただの補助監督でもない。上が重宝していて、楽巖寺学長が孫のように可愛がっている女の話だった。あの五条悟と結婚したことだけでも目立つというのに、彼女の強さは計り知れないほど危険だと歌姫は話した。
『補助監督のナマエには細心の注意を払うこと。間違えても喧嘩をふっかけたり、機嫌を損ねたりしないこと。もし『サシで闘ろう』と言われた時は立ち向かわず逃げることだけに専念すること』
まるで勝てない敵の回避方法を教わっているみたいだった。
「でも一応補助監督なんだし、味方なんでしょ?そんなに沸点低いわけ?」
「学長から聞く限りでは、昔は相当荒れてたって。女も子供も見境なかったらしい」
「ヤバい人じゃないですか…」
「あの空飛んでた龍もあの人の術式っぽい」
しかし歌姫の言ったことなどお構いなしにナマエの前で仁王立ちしている男がいた。「どんな女がタイプだ?」とお決まりの台詞で葵は問いかける。あの野郎人の話を全然聞いてない、と京都高の全員が顔をひくつかせたのと同時に東京高側生徒もゴクリと息を呑んだ。
「んー…なんか前にも聞かれた気がするな」
少し視線を仰いだナマエは真剣に考えているのかいないのか、暫くして唇を釣り上げると挑戦的な笑を浮かべて「従順な女かな」と呟くように言った。
それが悪かった。東堂はカッと目を見開いて「退屈だよ」と一蹴した瞬間、その大きな拳を振りかざした。
「東堂やめろ!」
悠仁が叫んだ瞬間、既に東堂は地面に転がっていた。彼女はその場から一切動いてない。微動だにした所も、この場の誰一人も見えていなかった。恐ろしく早いのか、それとも本当に動かず東堂を転がしたのか詳細は不明。
「ごめん、痛かった?野球できそう?」
「あの龍使いの女だろう……なんで補助監督なんてやっている」
「最初は気まぐれだったかな」
彼女の『気まぐれ』その言葉が何より恐ろしいと思ったのは京都校の生徒だけではない。東堂は地面に体を打ちつけただけで済んでいるが、気まぐれで殺されかけることもあるということだ。何よりあの歌姫があれほど顔色を青くしながら話していたのだ。関わるべきではない。
「悟くんが来るよ、みんな野球頑張ってね」
その数秒後に五条悟が監督を意識した格好でグラウンドに足を踏み入れたが、その場は静まり返っていた。
「あれ、何この空気。活気なくない?」
「お前の女房のせいだ」
「ええ?ひどい、真希ちゃん。なんか最近生徒の視線が痛い、やっぱり悟くんのせいだ」
「絶対僕のせいだけじゃないと思うんだけど」