聖域に銃口を向ける時



 僕は彼女との待ち合わせに遅れたことがないというのに彼女の方が約束の時間になっても現れなかった。胸の奥がざわついてすぐに伊地知に電話をかけて彼女の居場所を特定した。山奥で乗り捨てられた車を見つければまた胸の奥で林が揺れるような気持ち悪さを感じ、近くで感じた特級呪霊とそれを凌駕する大きな呪力の塊に心臓が強く鼓動を打ち始める。

「…領域展開してやがる」

 目の前で空中に浮かび上がっている白い球状の塊の大きさは異常だった。確か彼女は「流石に領域展開されたらなす術なし、だから手を考える」と前に言っていた気がするが、もう自身の生得領域を具現化できるようになったのか、あの呪力で一体どうやって。彼女の念を呪力に変えて増やそうと思えば不可能ではないが、それは電流を電圧にさらに圧縮して何重にも変換していくようなものだろう。高度で繊細で彼女の場合、僕なんかより数倍体力消費する筈だ。なのにこの呪力量は考えられない。

 ふと一つの考えが頭に浮かび上がって激しい苛立ちが込み上げた。感情のまま目を覆っていた布を剥がし、彼女の領域に踏み込めば、そこは戦意が削がれるほどひどく安らかな空間だったのだ。

(洗練された領域だ)

 澄み渡る空気や自然に毒気を抜かれ呆然としていたが、小さな家の前に腰掛ける男を見つけた。白いシャツに黒いスラックス、ラフな格好をしているが額に巻かれた包帯やガラス玉を嵌め込んだ青いピアスは印象的そのもの。片手で本を開いているが、男の視線の先ではバラバラに形をなくした特級呪霊は溶けるように消えていった。不意に男の視線がこちらに向けば「出てこいよ。話をしよう」と面白くない言葉を投げかけられる。

「怨霊がいつまでもナマエの中に留まってんじゃねえよ」

 唸るような声が自然と漏れた。この男が彼女が愛した奴だという確信があった。男は死んで、その歪んだ愛は呪いに変わり彼女の中で存在し続けていた。領域展開できるほどの呪力の大きさも全てはこの特級過呪怨霊となった男からきているものだろう。

 以前彼女を面白がって付け回していたら、彼女の気配がパッタリと消えたことがある。僕でさえ全く彼女を見つけられなかったのだから気になって問い詰めれば「絶だよ」と気配を遮断する念能力があることを明かしたのだ。この六眼でさえ彼女の中の呪いを見抜けなかったのはきっと周りに念を張って巧妙に隠していたのだとすれば納得がいく。

「絵に描いたような軽薄さ、こんな男のどこがいいんだ」
「は?こっちの台詞だよ。死人は早く成仏しな」
「俺の魂を縛ってるのは彼女だ。俺を愛するが故の、な。でもこんな形であっても彼女の側にいられるならそれでもいいさ」

 彼女がずっと前の男を忘れられないでいることは痛いほど知っていた。彼女と唇を貪り合っても、欲望のまま一つに繋がろうとも、彼女は僕を決して瞳に映さない。「愛せないけど、好きだよ」と彼女は儚げに笑った時、胸を掻きむしりたくなるような激しい感情で埋め尽くされた。

「自惚れるなよ。僕がいるからお前なんてすぐ忘れるさ」

 男は椅子の背にもたれて鼻先をこちらに向けていたが、言葉に動じる様子もなく、白く骨張った四角い手で頬杖をすれば見定めるように大きな目が心中を覗いているようだった。この男の決して乱れない空気が無性に思考を掻き乱す。

「僕はお前みたいにあの子を置いて死んだりなんてしない」

 眉ごと包帯で隠されているせいで、男の目が形を変えるのが不気味だった。ゾクリと背筋に緊張が走る。分かりやすく鼻で男は笑うと、口元を釣り上げて嘲笑する。

「はっ、ずっと一緒に生きることが愛か、笑わせる。お前の思考はこの本より薄っぺらいみたいだな。俺にはあいつよりも優先することがあった、それをあいつも理解していたさ。自分が一番になりたいだなんて少しも思ってなかったからな」

 この男を見ていればわかる。貪欲で自分の目的のために突き進んでいくような強さがある目をしている。賢そうな顔をしているがこの男が歩んできた道は楽ではなかったのだろう、だからこそこの男が纏う空気は洗練されていて、大勢の中にいたとしても目を引くような存在。なによりも優先して叶えたい夢が男にはあった、そんな所をきっと彼女は愛したのだと気づいてしまえば途端に喉元に痰が絡むような不快さを感じる。

「それでも俺はあいつを愛してたよ。共にあろうとしたが首を振ったのは彼女の方だ」

 ふと男は瞳を細めて微笑むその些細な表情の変化から目が離せないのはその視線がひどく儚げで美しいからだろうか。

「共にある選択をしなかったのは俺を愛しているからだと、殺したくないからと泣いてたよ。でもそれでよかった、おかげであいつは生きているし、お前と出会えたんだからな」
「はぁ?さっきから回りくどいいい方しやがって、これだからインテリは嫌いなんだ」

 男は片手に開いていた本を閉じると、後ろの小さな家を親指で差した。

「少なくてもあいつの愛はお前を殺す、よかったな、愛する女に殺されるなら本望だろ」
「黙れよ」

 ここでこの男を祓ってもよかった。消すのなんて一瞬だ、でもそれじゃあ意味がない。小さな家を目指して男の横を通り過ぎた瞬間、鼻につく彼女と同じ香り。どこまでも嫌な野郎だ。

 家の中に入れば、大きなベットの上で眠っている彼女の姿があった。真っ白なシーツに漆黒の髪を広げて、気持ちの良さそうに眠る彼女の体は傷だらけだった。背と脚に腕を差し入れて抱き上げる、彼女の耳元に鼻を擦り付けて込み上げてくる想いに浸る。体は子供のように暖かいし、領域はこんなにも安らかで美しい。彼女は本当に恐れているものに向き合わなければならない。

「もういい加減、悪い夢から覚めよう」




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